2014年10月05日

◆与謝蕪村生誕地が改めて証明された

毛馬 一三



江戸時代の3大俳人・与謝蕪村の生誕地が、大阪市毛馬町であることが学説として定まったのは、何と終戦直後でした。それまで江戸時代から明治・大正・昭和20年頃に至るまで、蕪村生誕地は諸説が出回り、確定していなかったのですが、奈良県の学者によって毛馬町生誕地だと証明されたのです。(本誌に既載)。

この学説が出されたのが遅かった所為か、「蕪村生誕地が大阪毛馬町」であることは、残念ながら地元大阪でも、全国にも広まっておりません。

ところが、このほど改めて蕪村生誕地が毛馬町であることを証明する画期的な「証拠」が出現したのです。
これには目を剥き、歓喜に覆われました。

というのは先月末滋賀県で、これまで蕪村の幻の大作と云われる「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が、蕪村自作絵画と、92年ぶりに確認されたのです。しかもこの蕪村が描いた絵の署名に、「蕪村生誕地」が大阪毛馬町であることが明記されたていたのです。蕪村自作絵画鑑定の署名ですから、間違いはありません。

これは終戦後の「学説」が出て以来の、「蕪村生誕地」が改めて裏付けされる証左となりました。詳しくはこれから追々。

まず前記のように、この「蜀桟道図」が、与謝蕪村が晩年に描き、所在が分からなくなっていた作品でしたが、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定した結果、92年ぶりに所在と自作絵とが確認されたとして、公開されました。

 「蜀桟道図」は蕪村が亡くなる5年前、1778年に描いた作品で、縦およそ1メートル70センチ、横1メートル近い大作。1800年ほど前の中国の風景が絹地に墨と淡い色彩で緻密に描かれ、蕪村が晩年、絵画を描く際に使った「謝寅(しゃいん)」という署名が残されています。まずこれが大切なことです。

作品は、蕪村の愛好家として知られた実業家が1922年に出版した「蕪村画集」に収録されていましたが、その後、所在が分からなくなっていました。最近になってシンガポールの会社が所蔵しているという情報があり、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定し、確認出来たというのです。

与謝蕪村の研究を続けている関西大学文学部の藤田真一教授は、この蕪村絵を観て「作品の大きさに驚き、表情豊かな人物の描き方とともに蕪村の意気込みを感じた。蕪村にとって美術と文学が切り離せないということを改めて示した作品だ」と話しています。

「蜀桟道図」は、来年3月に東京で公開されたあと、7月から甲賀市の「MIHOMUSEUM(ミホミュージアム)」で一般公開されます。<参考:NHKニュース>

さらに詰めて行きますと、この蕪村自作絵の末尾に、「生誕地」が大阪毛馬町であると証明する「蕪村署名」が書かれていたのです。

<読売新聞によりますと、この 「蜀桟道図」は、中国四川省北部に行くための険しい道「蜀桟道」を画題とし、縦167・5センチ、横98・9センチの絹地に墨と淡彩で山や空を描写。遠近感や奥行きを表現しながら、道を行く人々を軽やかなタッチで描いている。>と、書いています
ここからが、貴重な記述です。

<この絵の画面右上に、「(とうせいしゃいん)東成謝寅」という署名を、自筆で書いています。実は「謝寅」は、蕪村が晩年に使った号で、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したとみられるのです。>。

ということは、蕪村が生誕地を証明する見事な「署名」と残したと云わざるを得ません。

<しかも安永7年(1778年)、制作を依頼した俳人にあてて蕪村が、「『蜀桟道図』を完成させて送った」と書いた手紙の写しも残っており、亡くなる5年前のこの年の作品であることが分かる。>
と、読売新聞は記しています。

つまり、蕪村が晩年に使った「謝寅」の号に、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したことが、自ら生誕地を「署名」で残したことになり、改めて「生誕地」が明らかになったのです。望郷の念が在りながら、「生誕地」を明らかにしたがらなかった蕪村にとっては、驚きです。死期の切迫を感じたため、敢て「署名」で告げたのでしょうか。

蕪村生誕地が毛馬町であることが、自作の絵画と鑑定された「蜀桟道図」の「謝寅」の号の署名によって、改めて証明されたことは、終戦直後の定まった「蕪村生誕地」以来、遂に更なる「証」となったのです。このような滋賀県甲賀市美術館で鑑定は、実に素晴らしいことです。

 とにかく上記の新証明は、筆者主宰のNPO法人と大阪市立大学と共同で立ち上げている「蕪村生誕300年行事実行委員会」の行事具体化躍進に貢献し、同時に「蕪村生誕地毛馬町名」を一層広げるでしょう。
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2014年09月28日

◆与謝蕪村顕彰を高めていく

蕪村顕彰俳句大学
毛馬 一三





江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出し、江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したのではないか。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事しに訪ね、俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、これもミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、巴人師が没したあと江戸から脱し、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。

その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪に吟行のためやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村から2キロほご離れた西側の淀屋橋や源八橋からだ。ここには「検問所」があったためで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪
ねて回っている。源八橋付近は「梅」の木の囲まれていたという。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。つまり大阪市内の各地を回っている。   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで、大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪も活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚くご縁と嬉しい話が飛び込んできた。

蕪村生誕地近郊に大阪市が5年前造営した「蕪村公園」の横に、「淀川神社」がある。しかも、大川(旧淀川)の前にある神社はここだけだ。私自身も拝礼しに行く神社はここだ。

ところが、地元の町内会長のご紹介で、「淀川神社の宮司」と会うことが出来た。宮司とは初めての対面だったが、宮司の実に素晴らしいご意向を聴かされた。

2年後の「蕪村生誕300年祭」行事を神社でも行いたいし、神社でも「俳句会」を行いたい。蕪村顕彰を後世の為に諸活動を進めて行きたい、などの強いご意向だった。

「蕪村顕彰」事業を既にすすめているNPO法人近畿フォーラム21で、私が活動していることを町内会長から聴かされたので、いち早く会いたかったと告げられた。このご縁とは、実に素晴らしいものだった。

しかも「蕪村顕彰」を後世継承したい私の考えと全く一致し、地元の神社が蕪村顕彰の発信地となり、これから神社で「蕪村顕彰」祝事をして頂くとは、まさに“快挙”と言えよう。

しかも、蕪村が大阪に吟行に来ながら、一度も実家に寄らなかったわけがあっただけに、この時代になって旧実家の近くにある、ここ「淀川神社」で蕪村の望郷の念を繋いでやることは、蕪村も大いに喜ぶだろう。

宮司の話に感動し、近く再会して活動の進め方を話あうことになった。後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動をしようという当NPO法人の試みは、立ち上げてから4年が経って画期的な話が舞い込んできたことになる。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村を、この地元「淀川神社」から全国、初外国に広めて行こう。

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2014年09月15日

◆九期「蕪村顕彰俳句全国大会」 開催迫る

蕪村顕彰俳句大学 主催
兜カ學の森    共同


NPO近畿フォーラム21の「蕪村顕彰俳句大学」が主催、兜カ學の森が共同して開催する第九期「蕪村顕彰俳句全国大会表彰式」が、9月21日(日)午後1時に迫りました。

会場は、蕪村生誕地近くの大阪市都島区毛馬町の大阪市立淀川小学校です。

蕪村顕彰俳句大学が兜カ學の森と共同して開催する今期の「蕪村顕彰俳句全国大会」は、七期につづく2回目の全国俳句大会の行事で、「全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大学の句会講座」の受講生から応募された俳句作品を、8名の選考者に選考して頂いた優秀句を表彰するものです。

上記「一般の部」の優秀句には「大阪府知事賞、大阪市長賞、関西・大阪21世紀協会理事長賞、蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞」の賞状を授与します。また入賞者20名に対しても、賞状を授与します。

同時に大阪市内の公私立小中高を対象にした「児童生徒の部」では、選考されて優秀句に「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、蕪村顕彰俳句大学学長賞」の3賞と「佳作賞」を授与します。

更に諸外国からの作品応募の中から選考された優秀句に「国際蕪村俳句賞」として、「大阪府知事賞、国際交流基金理事長賞」に賞状を授与致します。

ところで、今回の「蕪村顕彰俳句全国大会」での注目は、勿論上記の受賞式ではありますが、式典次第のメインイベントとして「選考者」代表3名の方々に、
「優秀句選考の寸評」をして頂くことです。

蕪村顕彰俳句大学の選考委員長を兼務して頂いております三村純也大阪芸術大学教授に司会を依頼し、現代俳句協会名誉顧問の宇田喜代子様と日本伝統俳句協会関西支部長の千原叡子様との間で、「今期の選考逸話や優秀句の評価」などをお知らせ頂き、如何に今期の全国大会が意義あるものだったかを「寸評」に交えながら合議して貰おうと期待しております。

そして最後のイベントは、三村純也選考委員長に「児童生徒の部」と「国際俳句蕪村賞」の受賞者句の「寸評」をお願いして居ります。

締め括りは、蕪村顕彰俳句大学の「句会講座」をご担当して頂いた朝妻力、大橋晄、石川多歌司、山尾玉藻の各講師の「講師推薦賞」の受賞式を行い、(山尾講師は主宰句会の総部会のため、欠席)3名の講師に「講師推薦賞」を受賞される受講生の受賞句「寸評」をして頂き、賞状を授与致します。

式典はこれで終了させて頂き、つづいて近郊の「蕪村公園」で「優秀句記念プレート碑」の除幕式の儀式を行います。「優秀句記念プレート碑」は、今九期で、九基が並ぶことになりますが、ここでは式典と「記念撮影」などが盛大に行われます。

どうか9月21日(日)午後1時からの第九期「蕪村顕彰俳句全国大会表彰式」と近郊の「蕪村公園」での「優秀句記念プレート碑」除幕式に、是非ご参加頂きますようお願い致します。
posted by 21キンキ at 13:36| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

◆「蕪村」のこころの言葉

◆「蕪村」のこころの言葉

蕪村顕彰俳句大学      池尻 一寛
                     

与謝蕪村学者の藤田真一教授(関西大学文学部)が、「蕪村」〜日本人の心の言葉〜を綴った新著を発刊されました。

発行所は椛n元社で、8月中旬から書店で発売されています。(本体1200円+税)。

著者の藤田教授には、これまで「俳人蕪村」に関する多くの著書・監修誌がありますが、大部分は「蕪村俳句・絵画」についての専門学説の論述が主です。

ところが新著は「蕪村の絶妙な言語感覚」や「俳句を作る時の環境やこころの動静」などが中心に書かれており、著書内容によって学説では接したことがない「未知の蕪村像」が浮かび上がってくるのです。誠に異色著書と云えます。

そこで、この感動的な著書をご紹介したいと考え、著書の冒頭に書かれた「はじめに」の欄を、下記に掲載させて頂きます。是非、藤田教授新著の「蕪村〜日本人のこころの言葉」の、拝読をお勧め致したいと存じます。

<画家・俳人というと、描こう描きたい、吟じよう吟じたいという、作者本人の意欲というものが先行する気配があります。もちろん蕪村とて、みずからの意思や願望を抱いて制作にむかう気持ちはあり余るほどに有していたことでしょうが、それと併せて、依頼主や仲間の意向にも精いっぱいのこころを用いたはずです。

自己実現と周囲との協調とがあいまってこそ、蕪村の制作舞台は整えることができたのです。

蕪村は、一介の町絵師にすぎませんでした。むろんときには自発的に描きたいと思うこともあるでしょうが、それとて顧客の嗜好を無視することは出来ません。蕪村の絵筆は、贔屓し、支援してくれる人びとともにあったのです。

俳諧となるとなおさら、仲間や門人といったまわりの人びと(連衆)が欠かせません。句会でも、吟行でも、句集の出版でも、孤高・独断おいうことはまず考えられません。

蕪村も人並みに夜半亭という宗匠となりますが、蕪村にあっては、上に立って指導するというより、句作の上達をめざしてともに歩むという姿勢が強く感じられます。

顧客の好みや視線を意識しながら、蕪村にしか描けない絵をかき、蕪村にしかよめない句をつくったのです。そしてそれらが今なお、多くのひとを引きつけてやまないのです。

ジャンルをまたいで、散策することによって、蕪村の未知の魅力がさらに浮かび上がってくるにちがいありません。生誕三百年を目前に控えたまさに今、蕪村の神髄にいっそう迫る好機といってよいでしょう。

ただし作品を遠目から観察しているだけではだめです。蕪村の懐にはいり込もうとする心構えが何よりたいせつです。

その道を歩もうとするとき、手紙がかっこうの道しるべとなります。作品からは見えてこない蕪村の日常の姿を目にし、飾らない声を耳にすることができます。

先年完結した「蕪村全集」全九巻(講談社版)には、四百五十通もの手紙が収録されています。仕事にかかわる記事がもっとも目につきますが、身近な日常茶飯の話題にも事欠きません。家庭生活はもとより、門人・友人との応答、洛中の種々の噂、畿内また地方のトピックなど、多岐多端にわたり、そこから当人の息づかいが感じられるのです。

まさに蕪村の懐にはいる絶好の入り口となり、その時代のなかで蕪村の姿にまみえるにはうってつけつけです。本書では、これらさまざまなレベルの蕪村のことばに接することができるよう努めました。 >

身近な日常茶飯の話題や多岐多端にわたって蕪村の息づかいが感じられるのが素晴らしい内容です

これが、藤田真一教授著書の「はじめに」欄に記された著作の意向です。

序でながら、こうした意向を盛り込まれたあとに、本論の「目録」を期しておきましょう。

◆まず、「言葉編」で、
1.遅咲きの偉才
2.画俳ふた道の華
3.交誼の輪
4.時空の夢
が、綴られています。

◆締め括りとして「生涯編」があり、
1.略年譜
2.蕪村の生涯
と、なっています。

ところで、「生涯編」の「蕪村の生涯」の中に、非常に興味深い事実の綴りがありましたので、下記に紹介させて頂きます。

<貴族でも武家もなく、担い手がまさに庶民である俳諧は、家柄や身分にこだわらないので、誕生から幼少期の記録が残っていないことが多いのです。蕪村ですらそうです。

蕪村のばあいも、生い立ちにかかわる事象はほとんど謎に包まれています。蕪村はことさらに、みずからの意思で、あからさまにすることを控えていたふしがみられます。

生前、他人に報じた唯一の資料は、伏見の柳女・賀隋母子に宛てた手紙に、「春風馬堤曲」に、(馬堤は毛馬塘也、則。余が故園也)という一節があるのみです。

柳女の夫は、鶴英と号した俳人で、蕪村と活動をともにした人物です。没後、妻子が蕪村門に入ったのですが、そんな人でも蕪村の出身を知らなかったことになります。生家については、いっそう明かせない何かがあったようです。

ただ、一番弟子」の几董はさすがに承知していたらしく、追悼文の初稿では、「浪速津の辺りちかき村長の家に生い出て」と書き、さらに病床にはふたりの姉が見舞いに来たとしるしてあります。

そういえば後年、京都から何度も大阪におもむくことがあっても、ただの一度たりとも実家に立ち寄った形跡はありません。伏見から船で淀川をくだるとき、かならず目前を毛馬の村がよぎるにもかかわらず、です。先ほどの手紙には続けて「言葉編」冒頭に出したこの文章がきます。

  余、幼童之時、春色清和の日には、必共どちとこの堤上にのぼりて遊び候。
  水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。

還暦を過ぎての回想だけになつかしむ心情に満ちあふれています。けしてふるさとを嫌っていたわけではないのです。でも、どうしてだか帰省するに至っていないのです。この引き裂かれた気持ちが、絵にも俳諧にただよう。なつかしさの香りにつながるのかもしれません。>

ところで、蕪村が俳諧、絵画に向かった時の「環境と心のあり様」は、新著をじっくり、読み感動したましが、筆者にはまだまだ「蕪村幼少期の謎」の想いが心を巡ります。
蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の庄屋の家に生まれました。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ「奉公人」として来ていました。ところが時が移ると、村長の妾となり、蕪村が生まれたのです。生誕日は不明。
こうした中、「春風馬堤曲」にあるように「幼少期」は、家系を継ぐ者としてか、家族からも、もてはやされ楽しい時を過ごしていたことは間違いないと思われます。

ところが、蕪村の人生を大きく変えることが起きました。蕪村が僅か13歳の頃、毛馬で母が亡くなり、村長も跡を追う様に間もなく逝去して仕舞う不幸が舞い込んできたのです。

蕪村は、結局「妾の子」だったため、一転して村長家一族からからは「過酷な苛め」に遭わされたようになったようです。しかも父の死去に伴い毛馬の庄屋家業も、「極貧庄屋宅」に変容して仕舞い、蕪村に家系を継ぐ話など出る筈もなかったのでしょう。

以来、生家「庄屋宅」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったというのです。これは室生犀星の状況と全く類似していると「学説」にも出ていると聞いています。

つまり、この「幼少期の不幸」が、望郷の念は人一倍ありながらも、毛馬の生家へ一度も寄らなかったのは、「幼少期の極いじめの経過」が、「帰郷拒否の念」心境増幅に繋がり、帰郷する気持ちを完全に阻んだものに違いありません。

藤田教授の新著「蕪村」は、学説とは少々異なり、教授の想いが随所に現れていて、本当に感動して読める書物になっています。

こうした中で、筆者の前記の想いを繋げて心を浮き立たせ、ミステリー小説としてでも書こうかと思っています。

最後に記述しておきたいのは、著作の背表紙に「生誕300年ー響いてやまぬ絶妙な言語感覚」書かれています。

筆者らは、2016年に迫って来た「蕪村生誕300年記念行事」を大阪市立大学と兜カ學の森と共同して、俳句文化振興と後世への伝承のために実行いたします。

どうか、芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の俳人「蕪村」をよく知ってもらい、生誕300年記念のためにも、この貴重な藤田真一教授の新著「蕪村」(創元社刊)に目を通して頂きたいと存じます。                  (了)

posted by 21キンキ at 10:43| ご挨拶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

◆NHK与謝蕪村特番 素晴らしい!

NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大學 
                        

NHKは、7月30日(水)夜10時から大阪俳人・「与謝蕪村の特別番組」を放映しました

この特番は、「歴史秘話ヒストリア」で放映されたので、このようなNHKの超人気番組で取り上げられたのには、大きな驚きであり、喜びを覚えました。

NHKは、<与謝蕪村は、俳句と絵画を極めた江戸のマルチ・アーティスト!「菜の花や月は東に日は西に」など名句風情の秘密とは?国宝「夜色桜台図」に秘められた感動の物語って?貧乏だけど自由なその人の人生を、愛して止まないイッセー尾形さんが演じます」とのキャッチフレーズを、放映事前に告知しました。

<“のたりのたりと”いきましょう>と題する「俳句と絵画を極める」与謝蕪村の生き様の演技は、イッセー尾形さんがこのキャッチフレーズに応じ、蕪村の人生を十分理解した上で、見事に演じました。

蕪村が、「俳句と絵画」に取り組みながら、貧乏と自由さの狭間の中で、実際に弟子たちと議論しながら俳句つくりに取り組む生き方を、なまなましく浮き彫りみせたのです。

特番によると実は、蕪村は12才で母親を大阪・毛馬の生家で亡くしたため、毛馬を出奔し江戸に向かい、幸いにも俳人巴人と出会い俳句に取り組んだのです。しかし巴人は蕪村が27歳の時この世を去り、蕪村は東北を放浪しました。

蕪村は、39才の時、母親の里・丹後の与謝に移り、絵画を志して励んだあと、京都に戻ったのです。ここからがイッセー尾形さんの演技がいきいきと蕪村の生き方を訴えたのに見応えがありました。これが特番の素晴らしい構成でした。

ところでこの特番で驚いたことがありました。「菜の花や月は東に日は西に」という句がどうして生まれたのか。この句は、雄大な写生句だと感じていただけでした。

ところが毛馬地域にとって「菜の花」は、大変な「生活の糧」だったのです。これは、この特番のゲストで出演した関西大学文学の蕪村学者・藤田真一教授が明らかにしました。

「菜の花」からは、「菜種油」が採れ、「行燈の灯り」にすることが出来たのです。イッセー尾形さんが演じる夜中のシーンで、「菜の花」が「灯りの元」となり、句会や俳句作りに役立っていたのです。流石、「菜の花」は、掛替えのないない産物であり。浪速の誇りだったのですね。

東京大学の佐藤康宏教授も、蕪村の魅力を解説され、参考になりました。

特番では、蕪村老年結婚で生まれた「くの」が離縁して蕪村の家に還り、以後老いと病と闘う蕪村がにじみ出てきました。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じました。死因は従来、重症下痢症と診られていましたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされています。特番に出てくる蕪村の墓のある「金福寺」に行って来ています。

特番で、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的でした。

NHK制作プロジューサーのコメントによると、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を一般に知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

とにかく「歴史秘話ヒストリア」で、蕪村のことが初めて放映されたこと自体、大いなる価値があります。

「蕪村生誕300年記念行事」の実行を、この9月から、共催の「文學の森」と共同して開始して参ります。

この素晴らしい「歴史秘話ヒストリア」特番で、7月30日に放映されたのを機会に、本格的に「記念行事を」進めて行きます。NHKでも「蕪村生誕300年記念」の2016年には、蕪村生誕大阪毛馬の生家での「蕪村の幼少の生き方」などを、再び「特番」にして頂きたいと祈念致します。

どうか、俳句愛好家、大阪市民の方は、「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。
posted by 21キンキ at 12:47| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月24日

◆淀川の河底にある「与謝蕪村の生家」

           
蕪村顕彰俳句大学
            蕪村生誕300年記念事業実行委員会


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋?)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所
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2014年07月17日

◆NHKで“与謝蕪村特番”を放映!

NPO法人近畿フォーラム21
                     蕪村顕彰俳句大学


NHKでは、これまで江戸時代の三代俳人・与謝蕪村について特別番組を放映したことはありません。ところが7月30日(水)夜10時から43分間、総合テレビの人気番組で放映することになったのです。

特別人気番組とは、皆さんもよくご存じの「歴史秘話ヒストリア」で放映されます。「“のたりのたり”といきましょう 与謝蕪村 俳句と絵画の極め方」の主旨で放映するそうです。

番組の中で蕪村を演じるのは、イッセー尾形さん。蕪村学者では関西大学文学部の藤田真一教授(当俳句大学の特別講師)や東京大学の佐藤康宏教授も出演されます。イッセー尾形さんが、蕪村をどのように演じるでしょうか。

特番担当プロジューサーによると、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的だそうです。

同プロジューサーの更なるコメントに、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

どのような番組展開になるのか分かりませんが、「歴史秘話ヒストリア」で蕪村のことが放映されるということ自体、大いに「ねうち」があります。

どうか皆様も、7月30日(水)の夜10時から放映の「蕪村を伝えるー歴史秘話ヒストリア」を、是非ご覧下さい。「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。
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2014年05月31日

第9期5月「句会講座」終わる

蕪村顕彰俳句大学 事務局


第9期5月後半の2「句会講座」が終わりました。いよいよ6月講座に迎えます。

後半の初めの「句会講座」は、石川多歌司講師によって、5月19日に開講しました。

同講座は、まず「蕪村の生き方」について、石川多歌司講師の講演が行われました。

この中で、「蕪村俳句の評価について正岡子規と萩原朔太郎とは異なり、特に朔太郎は蕪村が詩人として彩られ、寂しさといら立ちの人生に立った俳人だと評価しているのが、注目される」と語られました。

このあと、句会の場で受講生が作品を投句し、お互いに選句し合う恒例の行事が行われました。

この受講生の全作品について、石川多歌司講師が1句づつ選評しながら、丁寧な手直しがおこなわれました。

5月後半を締め括る「句会講座」は、5月28日の山尾玉藻講師によって開講しました。この日は、初夏の晴天に恵まれ、強い陽射しと、緑に装われた石垣の上に立つ大阪城天守閣の全貌が教室から眺められ、軽やかな雰囲気の中で講座は進められました。

「山尾句会」は、受講生が事前に出句した作品が開講時に配られ、各受講生がお互いに選句する行事から始まりました。このあと、山尾講師が全作品の中から、「入選・佳作・秀作」の順番に発表され、1句づつ「選評」が行われました。

山尾講師の「選評」で興味深いのは、俳句作意の意味が分かりにくい作品を巡り、受講生への直か問い掛けのやり取りが行われることで、その結果双方が納得出来る「優れた手直し作品」が出来上がることです。

また、受講生から山尾講師への質問も目立ち、今回「状況説明に終始する句は、良くない」と述べられた講師へ、「俳句は説明に陥り易いが、どうしたらいいでしょう」との質問が注目を集めました。

これに対して山尾講師は、「俳句は重要な感動のポイントを綴ることが必要なことで、成り行きや状況などをただ説明するのでは、俳句にはなりませんね」と述べられ、納得の頷きが広がりました。

ここで山尾講師から今回の秀作寸評を頂きましたので、掲載させて頂きます。                  

<秀作寸評            山尾玉藻>

岬馬の尻張つてゐる青嵐     山本耀子
 岬馬とは宮崎県都井岬に人為的な手を殆ど加えられずに生息する野生馬のこと。大自然に育まれた岬馬は強靭な体躯をしており、殊に後躯がとても立派である。「尻張つてゐる」の張りのある表現がそんな岬馬特有の姿を見事に捉えていて、岬の万緑を揺るがすほどの青嵐の中にあっても揺るぎのない存在として伝わってくる。
  
   老鶯に金色深む神輿二基      大山文子
 鶯は夏になると山地に移り木の茂み笹叢で営巣する。雄は盛んに囀り、それを老鶯と呼び、その声は勢いがあって非常に美しい。神輿蔵で神輿を仰いでいた作者の耳にも、山中で盛んに囀る老鶯の声が届いている。その声を聞き止めている内に、神輿に装飾された金色に落ち着いた深みが生まれ始めたように感じた作者。老鶯の鳴き声は金色をも鎮める張りのある美しいものであったのだろう。

   薫風の裏道ゆきぬ奈良ホテル    松井倫子
 奈良ホテルは明治42年創業の老舗ホテル。本館は現在も創業当時の木造二階建て瓦葺屋根の重厚な姿をとどめている。作者は広やかな大路を逸れた裏道を辿っていたのだろう。暫く吹き抜ける薫風を楽しんでいた作者の前に、思いがけなく奈良ホテルがその姿を現した。万緑の中で古色ゆかしい奈良ホテルはより一層落ち着きある佇まいを見せ、作者のこころを捉えたことだろう。
                            以上

冒頭に記述しましたように、いよいよ6月句会講座が始まります。
・ 6月11日(水)    山尾玉藻講師担当
・ 6月16日(月)    石川多歌司講師担当
・ 6月23日(月)    朝妻力講師担当
・ 6月27日(金)    大橋晄講師担当

受講生の皆様、9期「蕪村顕彰全国俳句大会」が迫って来ました。全国大会に沢山の作品を「応募」して頂きますよう、お願い致します。「応募の締め切り」は、7月31日です。頑張りましょう。

posted by 21キンキ at 05:43| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月15日

◆5月「句会講座」が始まる

蕪村顕彰俳句大学 事務局


兜カ學の森と共催する「蕪村顕彰全国俳句大会」の九期5月講座が始まりました。

 5月最初は、同月9日(金)に大橋晄講師による「句会講座」が開かれました。まず「行春」「山吹」を兼題に受講生から出句された俳句作品について、受講生がお互いに3句づつ選んで発表しました。

 このあと、大橋講師が「佳作」「入選」「特選」に選句された作品について、「選評」を行われました。特に口語体、文語体の使い方や助詞を中心の活用形について、受講生の出句意図などを聴きながら、感想と修正を行われたのが注目されました。

2回目の「句会講座」は、5月12日(月)に朝妻力講師によって行われました。

まず、朝妻講師は「なぜ文法か」の講演から始められました。
この中で、「俳句をなぜ文語体でつくるのか」について、
  1)口語体では表現できない「詩情」が表現できる
  2)季語のほとんどが文語体である
  3切れ(かな、けり、や、なり)はすべて文語体
  4)句形(5、7、5)は、文語体のほうが適切
と述べられ、受講生の傾聴を集めました。

このあと「氷室」「黒南風」」自由題」の兼題で出句された受講生作品を巡り、恒例の受講生が選句作品を発表し、これを受けて朝妻講師が作品1句づつ「選評」を行われました。

次回3回目の「句会講座は」、5月19日(月)に石川多歌司講師、5月「句会講座」の
最後は、5月28日(水)の山尾玉藻講師の開講で締め括ります。

「蕪村顕彰全国俳句大会」の表彰式に向けて、全国の俳句愛好者よりも優れた俳句作品を応募したいとする気概とムードが段々と昂揚して来ています。「4句会講座」の受講生の皆様に大いに期待が寄せられます。楽しみです。

posted by 21キンキ at 11:34| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月30日

◆第9期4月「句会講座」終わる

NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大学
 

第9期「蕪村顕彰俳句大学」の句会講座は4月から始まり、これまでに大橋晄講師と朝妻力講師による4月前半の講座は終わりました。
 
 これに続いて4月後半の山尾玉藻講師による講座が4月23日に行われ、4月28日には新規の石川多歌司講師による講座が開講しました。第9期からは、1つ増えて、4「句会講座」になったのです。
 
山尾玉藻講師による講座は、受講生が出句した78句の作品を受講生がお互いに3句づつ選句しました。このあと山尾講師が「入選・佳作・秀作」を公表され、受講生出句の78句総て「選評」され、出句者の作意を聴くなどもされながら句の手直しを丁寧に行われました。
 
 山尾講師が「選句・選評」された中から、「秀作」の作品と選評を頂きましたので、下記に掲載します。
 
  <秀作寸評                  山尾玉藻>

    一管の高まりて終ふ堂朧     山本耀子
 「堂」とあるので能楽堂であろうか、それとも神楽堂であろうか。「一管」とは能笛であろうか、それとも 笙篳篥であろうか。いずれにしても笛が高音となり非常に強い調子となった所で舞台の舞が終ったのであろ う。作者のこころの昂りが思われ、辺りの朧がその昂りを包みこむように鎮めていくのも窺い知れる。無駄 な表現がないだけに大きな膨らみをである。
  
   朧夜の玄関にある女下駄       奥田順子
  最近は下駄を履いた女性に殆どお目にかかれないが、この下駄の主はどんな女性なのだろうか。朧夜を  戻ってきた作者もどうやら見知った下駄ではなく、この下駄の訪問に少し戸惑っている様子である。季語  「朧」のぼんやり感が、恐らくは赤い鼻緒であろう下駄を一層ミステリアスな存在としている。

   奥山の鬼が寝につく鐘朧     蘭定かず子
  伝説で奥山には鬼が棲んでいたとされるのだろう。鐘の音が朧を伝って聞こえる頃、作者は山を眺めなが らそろそろ鬼も眠る頃だろうと思っているのだ。この山は酒呑童子が棲んだとされる大江山か伊吹山か。い ずれの山も雄大であるだけに、イマジネーション豊かな一句となっている。

 このあと、4月28日に「天地」俳句集団主宰の石川多歌司講師による新規「石川句会講座」が前記の通り開講しました。
 
 講座は、石川講師が9期から新規開講した講座についてご挨拶をされた後、受講生がその場で出句した145句を、それぞれ5句づつ選句し、発表し合いました。
 
 続いて、石川講師が講師による、受講生作品の「選句と選評」を行われました。
このあと、石川講師が5回に分けて行う「蕪村講座」の初回講演が行われました。その中で非常に関心が集まったのは、

<「この蕪村顕彰俳句大学」の講座を担当するようになって、私が感じたことがある。俳句の歴史を支える「ホトトギス」の俳句を出句する者にとって、「蕪村俳句」を熟知しないと、ホトトギス俳人にはなれないということである。>と語られたことでした。

 その上で、<「蕪村俳句」をこの世に評価出現させた正岡子規、高浜虚子、萩原朔太郎の「蕪村俳句」に対する数々の所感や見解>を紹介されました。

これで「全国蕪村顕彰俳句大会」9期4月の4講座が終わりました。

さて、5月の句会講座は、
・5月9日:大橋晄講師、
・5月12日:朝妻力講師、
・5月19日:石川多歌司講師、
・5月28日:山尾玉緒講師
  によって開講致します。

9月の「全国蕪村顕彰俳句大会」表彰式にむけて優秀句を、全国からの応募者と対抗して出句されるよう、今から心の中でご準備をお願い致します。
posted by 21キンキ at 14:31| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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