2015年04月21日

第11期「蕪村顕彰全国俳句大会」講座始まる

NPO法人近畿フォーラム主宰:蕪村顕彰俳句大學 事務局



注目の第11期「蕪村顕彰全国俳句大会」4月講座が始まりました。

まず4月10日には大橋晄講師による句会講座から開講しました。開講に先立ち、講師より第10期表彰の受賞句、佳作賞、講師推選賞が披露・賞状も手渡され、受講生の皆さんから、歓声と温かい拍手を受けました。続いて受講生出句作品の互選と、大橋講師による「選句」「寸評」が行われました。

つづいて、4月の17日には山尾玉藻講師による2回目の句会講座が開講しました。同講座も同様に第10期の各表彰受賞句の披露と賞状が渡され、受賞者の皆さんから祝福を受けました。
この日の山尾講座の兼題は「磯遊び」「潮干狩り」。受講生出句作品の互選のあと、山尾講師が秀作や佳作の選句と寸評を行われました。
 
山尾講師から講座修了後、出句作品の「秀作作品の紹介と寸評」を頂きましたので、下記に掲載致します。

 <秀作寸評                   山尾玉藻>

  尻ぬれてよりぞんぶんに磯遊      蘭定かず子
 最初は衣服が濡れないように気を付けて遊んでいたものの、遂にズボンのお尻が濡れてしまった。お尻も濡れてしまったことだし、とそれ以後は大胆に思いきり磯遊を楽しんだのである。人の心理を巧みに捉えた楽しい句である。

  風呑んで大渦潮となりにけり       大山文子
 観潮船からの嘱目詠。本来は渦巻く潮の勢いで風が生まれるのだが、海風を呑みこんでいよいよ大きな渦潮となったとする逆転の発想が活きている。ダイナミックな句である。

  潮干狩の団体乗りく赤穂線        上原悦子
 電車に乗り込んできた団体客は皆が軽装でそれらしき荷物を下げていて、季節柄ひと目で潮干狩へ出かける人達だと解ったのだろう。ローカルな「赤穂線」が良い。

有り難う御座いました。

 ところで、3回目の講座は4月23日(木)に、「鳰の子」俳句会主宰の柴田多鶴子講師による新講座が開講します。既にご報告しておりますが、この講座は、恒例の会場(学校法人追手門学院大阪城スクエアー6F)とは別の、高槻市の高槻市立総合交流センター(高槻市紺屋町1番2号 電話:072-685-3721)で、柴田多鶴子講師によって開講致します。
 2会場に分けて開講することは、当講座が始まって以来初めての画期的なことです。しかも柴田多鶴子講師による講座は、初回ですので、地元の俳句愛好受講生から大いなる期待が寄せられています。

 ところで、冒頭に書きましたが、この講座は、9月13日(日)午後1時から、句会受講生は勿論、全国俳句愛好家から俳句作品の応募を行い、全国最優秀句を選考する「表彰式」を行い、「賞状」を授与します。
 詳しくは、下記の「お知らせ」を ご拝読下さい。

第11期蕪村顕彰全国俳句大会のお知らせ
蕪村顕彰俳句大學 事務局
蕪村顕彰俳句大学は、兜カ學の森と共同して、この4月1日から第11期講座「蕪村顕彰全国俳句大会」を開講します。
第11期蕪村顕彰全国俳句大会は、大阪で「全国からの優秀句」を「表彰」するものです。

◆応募作品について、8名の選考者によって「優秀句」をご選考して頂きます。
選考による「優秀句」については、兜カ學の森の月刊誌「俳句界」に「受賞作品と選者寸評」を掲載します。

また、3講師による「講師推薦賞」授与も行います。同講師推薦賞該当句は、7月末までに事務局宛てにご送付願います。

以下、第11期講座「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式概要」を、記載します。ご拝読してご応募をして頂きます様お願い致します。
       
「第11期蕪村顕彰全国俳句大会」の概要
  (1)<作品応募期>
    平成27年 5月10日〜平成27年7月15日まで(締め切りをお守りください)。
  (2)<応募対象者:一般の部のみ> (当講座受講生・全国俳句愛好者)
   ・<応募先 > ・株式会社 文學の森  東京都新宿区高田馬場2−1−2−8F 
                                                 電話: 03−5292−9188
・<作品の応募料> :1,000円 (2句;全国俳句愛好家応募のみ)
<ただし、蕪村顕彰俳句大学受講生応募料は無料>

・<表彰式日時>・平成27年9月13日(日) 13時開催
・<式典会場:>大阪市立淀川小学校 多目的室   大阪市都島区友渕町3−5−29 
                                               電話: 06−6921−0001
・<プレート碑除幕式>式典のあと、会場近郊の蕪村公園で「優秀句記念プレート碑」を建て、除幕式を開催。
         
◆ <なお、表彰式での「一般部」以外の「児童生徒の部の応募」、「国際俳句蕪村賞の部」(諸外国の俳句愛好者の応募)表彰選考は、三村純也大阪芸術大学教授(当大会選考委員長)に担当して頂きます>
 
以上が、「第11期蕪村顕彰全国俳句大会」の概要です。

◆講座受講生のみなさまへ
 
どうか、日頃から句会講座で研鑽されている受講生と今回初めて参加される高槻市受講生の方々は、積極的に俳句作品を応募され、全国俳句愛好家と競って「全国一の優秀句賞」を受賞されます様、期待申し上げます。

posted by 21キンキ at 11:22| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月29日

◆第11期蕪村顕彰全国俳句大会 開講


            
NPO法人 近畿フォーラム21
                                蕪村顕彰俳句大学 事務局



蕪村顕彰俳句大学は、江戸時代俳人・与謝蕪村の功績を讃え、全国及び海外の俳句愛好者から作品募集を行ない、大阪俳句文化の振興と後世に継承するために、兜カ學の森と共同して、この4月1日から第11期講座を「蕪村顕彰全国俳句大会」として始めます。

第11期蕪村顕彰全国俳句大会は、大阪で「3句会講座」を行うと共に、上記の通り兜カ學の森と共同して全国・諸外国から俳句作品の応募を行い、「優秀句」にたいする「表彰式」行うものです。

表彰式は平成27年9月13日(日)13時開催から大阪市立淀川小学校 多目的室を会場として行います。

特に大切なことであります地元・全国からの俳句作品の応募は、平成27年5月10日〜平成27年7月15日までにお願い致します。

応募作品については、著名な選考者8名によって「優秀賞」をご選考して頂きます。その選考による「優秀句」については、兜カ學の森の月刊誌「俳句界」に「受賞作品と選者寸評」を掲載します

◆以下、第11期講座「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式要綱」を、詳細記載します。

・主催:NPO法人 近畿フォーラム21
大阪市都島区友淵町1−3−15−108     電話 06-6928-9773
 ・共同:株式会社 文學の森
   東京都新宿区高田馬場2−1−2−8F         電話: 03−5292−9188  
. 大会の概要
  (1)作品応募期間
  平成27年 5月10日〜平成27年7月15日まで(応募先:兜カ學の森宛)
(2)応募対象者
 ・一般の部 
蕪村顕彰俳句大学の受講者及び国内の俳句愛好者
 ・児童生徒の部
   全国の小中高校の生徒
 ・国際俳句蕪村賞の部 諸外国の俳句愛好者
 
(3)作品の応募料
  1,000円(2句)
ただし、蕪村顕彰俳句大学受講生、児童生徒、外国人応募料は無料。

(4) 第11期蕪村顕彰全国俳句大会 表彰式
 ・表彰式は、平成27年9月13日(日)13時開催
 ・式典会場: 阪市立淀川小学校 多目的室
       大阪市都島区友渕町3−5−29(大阪駅市バス停2番から「守口車庫行」市バス乗車。「毛馬橋」下車。右方向へ歩行約10分。公園前に同小学校)
                          

末尾ながら、どうか大阪俳人蕪村俳句を顕彰し、来年28年に迫って来た「蕪村生誕300年祭行事」を成功させるために、第11期は勿論、第13期(28年)の「蕪村顕彰全国俳句大会」に向けて、地元・全国から積極的に俳句作品がご応募されますよお願い申し上げます。        (以上)

posted by 21キンキ at 16:54| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月13日

◆大阪行脚の蕪村 生誕地には帰らず

NPO法人近畿フォーラム21



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは、本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下った。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬村」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。母親は若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎを委ねられたものの、正当嫡子でないために庄屋経営責任をも果たせず、周囲や同業からの過酷ないじめに遭わされたこともあって、意を決し毛馬村を飛び出したようだ。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。

この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の「淀屋橋や源八橋」からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて吟行に回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を重点的に回っていたことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり「大阪」が活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

これを証ように、今の大阪市北区梅田茶屋町の商店街の広場に「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があり、顕彰されている。

ここでは地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」という「まち起こしイベント」を催している。つまりこの辺りは、蕪村が毛馬橋から上がって、散策したところだ。

しかし、正に近郊の蕪村生誕地の「毛馬町」に、前述の様に一歩も足を踏み入れていない。父母に対する「望郷」の念は強くあっても、幼少の苦節がそうさせたのだ。

さて、後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、蕪村俳句文化振興をしようという筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム主催「講座蕪村顕彰俳句大學」(学長 川原俊明弁護士)開講は、立ち上げてから、もう5年が経っ。

応募の優秀句には「知事、市長、教育委員会委員長、学長賞」、海外から応募の優秀句には「国際交流基金理事長賞」等の各賞を授与する「表彰式」を毎年2回行い、蕪村生誕地近郊の大阪市造営の「蕪村公園」に、「表彰式」のあと「優秀句記念プレート碑」を設置している。

この4月からは、第11期講座が始まり、来年の蕪村生誕300年記念を控えて、9月には兜カ學の森と共同して「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を行う。是非、文學の森刊「俳句界」を通じて、俳句作品のご応募を読者の方にお願いした。

そんな折、驚くべきことが分かった。

大阪俳人としての名を高めた与謝蕪村が、生誕地毛馬村で幼少の頃、父母と一緒に「氏子」として参詣を続けていた氏神神社が今、大阪市毛馬町にある「淀川神社」であることが分かったのである。

これにより、昨年の暮、当NPO法人近畿フォーラム21と、「淀川神社」が共同して蕪村俳句顕彰し、蕪村参詣経験の「淀川神社」の名を広める等の諸活動を行うことになった。

その手始めに今年のお正月から「淀川神社」で、俳句愛好者が自作の俳句を「蕪村絵巻」に書き込み、境内に吊るす祭事を始め、マスコミも取り上げてくれた。

これからは、この活動が「望郷の念」の強かった蕪村が、来年28年の「蕪村生誕300年記念年」を控えて、現代の人たちが蕪村の「望郷の念」を引き継ぎ補ってくれることを喜ぶことになると思い、地元と協力して積極的に進めていきたい(了)
posted by 21キンキ at 14:33| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

◆「淀川神社」との共同事業進み出す

NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大学
蕪村生誕300年記念行事委員会



朝日新聞が昨年12月30日の紙面に、NPO法人近畿フォーラム21と「淀川神社」が共同で進めている活動について、「淀川神社:「蕪村故郷で一句いかが・生誕300年へ新年から献句」という記事で、「大阪版」に掲載しました。(「ご報告欄」に既報)

この記事を読んだ読者や、地元の俳句愛好者の人たちが、元旦から「淀川神社」を参拝し出して「絵馬献句」奉納新活動が進み出して、話題が大きく広がりだしました。「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!というキャッチフレーズも同様に広がり出したのです。

新年1月も、1か月になろうとしているこれまでに、「淀川神社」には「絵馬に献句しよう」と、地元の人や、俳句講座を受講生、親に連れられて来た児童生徒らによって献句された「絵馬」は100枚余に達しています。

「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!との目標を掲げて、蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産の未来へ伝承していく活動は、少しづつ進展して行くのに喜びを感じています。

そんな折、1月26日産經新聞の21面に、「蕪村の氏神に俳句奉納」。
〜淀川神社、生誕300年前に:(「俳句絵巻」写真掲載)〜
という記事が掲載されました。下記に掲載します。

<大阪で生まれた江戸時代の俳人、与謝蕪村(1716〜83年)の氏神を祭る淀川神社(大阪市都島区)が、元旦から俳句絵巻の奉納を始めた。

来年の生誕300年前を前に。地元では蕪村を顕彰する機運が高まっており、同神社は今後、蕪村にちなんだ句会も予定している。

 蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)で誕生。その後、江戸や京都に移り住み、俳人、画家として活躍した。

生誕地である毛馬村の氏神祭っていた神社は現在はないが、ご神体は合祀などを経て淀川神社に移されたという。

 絵馬は縦24.5a、横6a。表には蕪村の句「菜の花や 月は東に 日は西に」が書かれており、裏面に参拝者が自作の俳句と願い事を記す。

俳句愛好家や家族連れが次々に献句しており、横路良宮司(40)は「蕪村も喜んで下さっていると思う。子供や若者が俳句に親しむきっかけになれば」と話している。>

このように報道機関のご支援も頂き、蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産の未来へ伝承していく活動を積極的に進めて行きたいと思っております。

どうか、蕪村生誕300年記念行事をこれから頑張って始めます。皆様のご賛同を心からお待ちしております。
posted by 21キンキ at 13:01| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月01日

◆蕪村の故郷で一句いかが 

〜都島の淀川神社〜
                             近畿フォーラム21主催
                              蕪村顕彰俳句大学
                              蕪村生誕300年記念行事委員会
                       

明けまして、お目出度う御座います。本年もよろしくお願い致します。

NPO法人近畿フォーラム21と共同で「蕪村顕彰」を進めている、「淀川神社を蕪村神社として広めましょう!」の元旦からの活動記事が、朝日新聞12月30日の大阪版に掲載されました。

同掲載記事をご紹介します。拝読されて、お正月に参拝され、「絵馬」に「献句」されますようお勧めします。


 <江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716〜83)が生まれた大阪市都島区毛馬町にある「淀川神社」が、2015年の元日から参拝者が詠んだ俳句の「献句」を始める。「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」などの名句を残した地元の偉人について、16年の生誕300年に向けて広く関心を持ってもらおうとの試みだ。
 
蕪村は当時の摂津・毛馬村の有力者の家に生まれ、二十歳にならない頃に村を出て江戸や京都などで過ごした。生い立ちの多くを語らず、村には一度も帰らなかったという。
 一方で、望郷の句は詠んでおり、生誕地を示す淀川河川敷そばの碑には、「春風や堤長うして家遠し」という故郷を思う句が刻まれる。毛馬に帰省する少女を描く晩年の代表作「春風馬堤曲」の中の一句だ。(平井良和)

淀川神社はこの句碑から東南に約600b、蕪村を顕彰する蕪村公園のそばにある。近隣の友渕村に氏神をまつっていた神社の境内を利用し、毛馬村の氏神と合祀する形で1953年に鎮座した。蕪村の家は、氏子だった可能性がある。

宮司の横路良さんは、「地元でも蕪村の故郷だと知らない人が多くなっている。蕪村と俳句に触れる機会を増やしたい」と考え、神社での献句を思い付いたという。

「菜の花や月は東に日は西に」の句と蕪村の自画像が描かれた縦約24a、横約6aの木製の絵巻を500円で販売。

裏面に自作を含む好きな句と願い事を書いて貰い、境内の絵馬掛けに1年間、かける。

横呂さんは「蕪村の句にある土地の今を見て、思いを巡らせながら詠んでほしい」と話す。

献句は、1月1日午前0時からの歳旦への参加者から奉納がはじまる。
問い合わせは、「淀川神社・06・621・5980へ。(平井良和)>
posted by 21キンキ at 05:00| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月13日

◆お正月に「絵巻」のご奉納を

◆お正月に「絵巻」のご奉納を

蕪村顕彰俳句大学 事務局



 第10期の「句会講座は」、まず12月10日(水)から山尾玉藻講師によって、、兼題「歳晩・自由」を以て開講しました。
 つづいては12月12日 (金)に、大橋晄講師によって、兼題「鴨・時雨・自由」で「句会講座」が開講し、いずれも無事終わりました

 「12月句会講座」の締め括りは、12月15日(月)に石川多歌司講師による、兼題「事始め・冬芽・自由」で開講します。 大いに盛り上がる「句会講座」を期待致しております。

 ところで、開講した各講座は、受講生の互選と講師による選評および寸評が行われ、講師によって選考されて作品の「秀作」には、素晴らしいものが沢山ありました。

 これまで終了した山尾玉藻講座で「秀作」に選ばれた作品について、山尾玉藻講師から下記の「秀作寸評」を頂きましたので、感謝申し上げると共に、掲載させて頂きます。

<秀作寸評 山尾玉藻>

 餅筵はたき夕暮早めけり   山本耀子

 新年を迎えるための餅つきが滞りなく終わり、筵に丸め並べられていた餅も餅箱に収まった。ひと仕事を終えた安堵で餅筵の粉を払いながら、辺りが早や暮色に染まっているのに気付いた作者である。冬至が過ぎたとは言えまだまだ日は短い。筵を払う音が夕暮を早めたとする倒置的擬人法で日暮れの早さを際立てたところがなかなか巧みである。
  
 大寺の屋根昏れてゐし羽子板市   大山文子

 華やかな羽子板で埋め尽くされた仲見世に灯が点り始めると、華やさに煌びやかさが加わった目映いばかりの美しさである。そんな仲見世の通りから何気なく浅草寺に目を遣った作者は、寺の大屋根が既に真っ暗な闇に包まれているのに気付き少し驚いている。羽子板市の華美な賑わいと大寺の寂とした暗がりとが一つとなった世界、江戸の歳晩らしい景がここにある。

 置き薬の封切らぬまま年の暮  松井倫子

 家庭によっては今も富山から薬屋が定期的に来て置き薬を置いていくと聞く。年末、作者の家にもそろそろその薬屋がやって来る頃なのであろう。「封切らぬまま」の措辞に、家族の中に病や怪我をする者がなく、置き薬の世話にもならず、今年も何とか無事に過ごせたという、作者の安堵と感謝の思いが籠められている。>

 以上です。素晴らしい出来栄えですね。
 

ところで、後日詳しくWebでお伝えしますが、毛馬に生誕した蕪村が幼少の頃から、蕪村公園の前に在る「淀川神社」に、「参拝」していたことが分かりました。

 そこで「蕪村顕彰俳句大学」と「淀川神社」が共同し、「蕪村生誕300年記念行事」の一環とし、このほかにも諸行事を行うことを、この12月に合意しました。

 このため、27年の元日から「淀川神社」で、受講生や俳句愛好家が「俳句とお願い」を奉納する「絵巻」を発刊し、境内の「吊り下げ竿」に1年間下げることが決まったのです。

 蕪村が氏子として元日に参拝した「淀川神社」に、今の時代になって、俳句作品を奉納できること自体、画期的なことであり、これも「神様のお導き」だと思わざるを得ません。

 どうか、皆様もお正月の3か日に「淀川神社」ご参拝され、「絵巻」に「自信の俳句とお願いごと」自筆で書き込んでご奉納されますようお勧め致します。

 よろしくお願いいたします。


posted by 21キンキ at 10:26| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆氏神「淀川神社」と共同行事へ

NPO法人近畿フォーラム21主催
                     蕪村顕彰俳句大学 事務局
                     蕪村生誕300年記念行事委員会


画期的な事がまた、出来ました。蕪村生誕地近郊の氏神様「淀川神社」と、与謝蕪村顕彰の諸行事を、「共同」で進めることになったのです。

「淀川神社」は、大阪市毛馬町にある「蕪村公園」のすぐ南側、城北通り道路を渡って、すぐにあります。

どうして画期的なことなのか、これから追々。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、合祀を重ねながらもそのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

また、同じ旧東成郡の毛馬村には明治まで、同じ氏神様の「八幡神社」が在りました。つまり旧東成郡には、昔から2つの神社があったのです。

ここからが重要なこと。

江戸時代の俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な友渕村で生まれました。

生家は、父は毛馬の庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

この北国屋吉兵衛の一家が、正月などに参拝したのが、勿論家の近くにある上記の2つの神社であったことは間違いないでしょう。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家を出る苦衷から脱つしたい時の厄払いも、この2つの神社に参拝したことは想像に難くは在りません。

18歳の時、江戸に出奔する時も、「安全祈願」のためにこれら2「神社」に行ったでしょう。つまり蕪村(寅)と「神社」の関係は、当時の江戸時代の風習から考えても、当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところが、前述のもうひとつの「八幡神社」は、明治43年に政府の方針に従って「桜宮神社」と合祀して姿を消し、神社跡は当時から民間地となっています。

このため、蕪村生誕地近郊に現存する氏神様は、明治以来「淀川神社」のみとなっているのです。この由来を知る人が珠にあり、「淀川神社」を蕪村と繋ぐ唯一の神社だと広めたら如何と、宮司に囁きもあったようです。

ここで、話が急転し出しました。

2年前「淀川神社」宮司に就任された横路良さんが、その趣旨を生かしたいと決意され、地元淀川連合振興町会長の仲介で、蕪村顕彰と蕪村生誕300年祭行事を進めている私たちNPO法人に、ご意志の提案されたのです。

数回詳細協議を重ねた結果、蕪村顕彰の行事を「共同」して推進していくことを急遽合意しました。これが画期的なことなことでした。

合意したのは、大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を発信地として後世に継承することが相互の主意思であることで、一致したためでした。

更には、市内は勿論、全国からの俳句愛好者や観光客を蕪村生誕地毛馬町へ訪ねて貰う顧客誘致に貢献しようということの意思も一致したからです。素晴らしいことでした。

そこで手始めの合同行事として、幅6p縦24.5pの「淀川神社絵馬」を作製します。その絵馬表面に「蕪村の著名俳句と蕪村像」を載せます。

肝腎なことは、同絵馬の裏に、蕪村顕彰俳句大学受講生や一般俳句愛好家、公私立児童生徒等が、自作の「俳句と祈りごと」を手書きすることです。その「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになります。

この他の行事として、平成28年の「蕪村生誕300年祭」に向けて「神社のぼり」を作製し地元の毛馬町や友渕町に飾ります。また境内に「蕪村生誕祭の石碑」を建立することも考えています。

締め括りになりましたが、「淀川神社」内の催事部屋を使って、「句会講座」を開講することも、行事として地元の俳句愛好家の方にご協力頂くことも、すでに進めています。

蕪村自身が参拝したことのある氏神様「淀川神社」と、「蕪村生誕三百年祭」に向けて、こうした蕪村顕彰諸行事を、私たちNPO法人とが「共同」で押し進めて行くということは、実に素晴らしいことです。

いずれにしても、画期的で、予想外の喜ばしいことが、いよいよ始まります。皆様に「ご報告」致します。
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2014年11月06日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬 一三




松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思っていたからだ。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)
posted by 21キンキ at 17:22| 提言雑言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月24日

◆第10期「句会講座」が始まりました

                         蕪村顕彰俳句大学 事務局

10月から始まった蕪村顕彰俳句大学の第10期「句会講座」は、3講座になりました。

・最初には10月10日、大橋晄講師による句会が開講しました。
兼題「新米、秋晴れ」で、受講生が出句された作品を巡り受講生の相互の選句が行われ,つづいて大橋講師による選句と講評が行われました。

・10月20日には 石川多歌司講師による講座が開講しました。
兼題「薄い紅葉、やや寒い」を下に、恒例の受講生同士の選句と、石川講師による選句と選評が行われました。

・10月22日には、山尾玉藻講師による講座が開講しました。
兼題は「秋の鳴く虫一切」でした。受講生の選句のあと、山尾講師が佳作や秀作の選句と寸評を行われました。

山尾講師から「秀作作品の紹介と寸評」を頂きましたので、下記に掲載致します。有り難う御座いました。

<秀作寸評                   山尾玉藻>

   横腹のへこむ桃缶みみず鳴く      山本耀子
 昔は秋の夜に土からジーという音が聞こえるのは蚯蚓が鳴く声であるとした。このことから「蚯蚓鳴く」の季語が生まれたが、螻蛄の鳴き声と混同されたとも考えられる。作者は缶詰の側面に大きな凹みがあるのを見つけ、即座に中に満ちている柔らかな桃の実を思い少し気がかりなのである。即物的に対象を捉えて詠み、ちょっとした心の翳りを浪漫的季語「蚯蚓鳴く」に語らせたところが非常に巧みである。
 
  
   
そのままでそのままでよしすがれ虫   永島文夫
「すがる」とは盛りを過ぎて衰える意であり、そろそろ寿命が尽きるかのように弱弱しく鳴く虫を「すがれ虫」と言いう。恐らく作者がいつも耳を傾けていた庭先の虫の声がいよいよ衰えてきたのだろう。「そのままでそのままでよし」の措辞に作者の小さな命を慈しむ思いがしみじみと滲み出ていて、好感を覚える一句である。 

   
こほろぎの茂みへバイク傾ぎをり   蘭定かず子
 一台のバイクが傾いている方の茂みでおろぎが静かに鳴いている景。もし騒音を立てて来たバイクが今止められたばかりなら、茂みの蟋蟀は驚いて鳴かない筈である。止められて暫く時が経過しているバイクにはエンジンの温もりが残っているのだろう。本来は無機的なバイクにほんのり温か味が感じられ、それが秋の哀れさを誘うおろぎの声との相乗効果で、秋の夜の情趣を一層深める。意外な取り合わせで成功している。


なお、第10期11月講座は、
・大橋晄講師が、11月14日 (金) 、兼題「菊、行く秋」。
 ・石川多歌司講師が、11月17日(月)、兼題「冬めく、浅漬」。
 ・山尾玉藻講師が、11月26日(水)、兼題は「冬だれ、水鳥」。
で、それぞれ開講します。
 大いに盛り上がる「句会講座」になることを期待しています。
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2014年10月14日

◆一茶だけしか分からない「生誕日」

毛馬 一三

与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶の「生誕250年を祝う」催しは、出身地の長野県信濃町で毎年華やかに開かれている。

一茶は、今から371年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれた。

大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分からない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確かな「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、蕪村の「生誕日」が定かではない以上、2年後の2016年の「然るべき時」、多分秋の良い日を選んで、「生誕300年の記念祭」を大阪毛馬町にある「蕪村公園」で、大阪市立大学と共同して開催したい方針だ。

そこで、余り知られていない俳人小林一茶の生涯等を、この際綴って置きたい。その訳はこのあと追々。
小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

さて、<一茶俳句の作風>だが、幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者主宰の「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事実行委員会」を、前述のように大阪市大と共同して、地元の協力を得ながら大々的に実施したいとして、今、諸行事を準備している。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念行事を、2年後の秋にでも大阪市・大阪府・関西・大阪21世紀協会などの支援を求めて開催し、大阪の文化振興に貢献したいと考えている.                                   (了)


posted by 21キンキ at 06:08| 提言雑言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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