2015年08月26日

蕪村生誕地はいま淀川の河底

NPO近畿フォーラム21
      毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村生家は、一体何処に在ったのか。これは正確には知られておりません。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わ航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。(→リンク先の写真参照)。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。ここから分岐した河川は「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」は、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

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2015年08月02日

感動した蕪村実物「絵画と俳句」閲覧

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬 一三



 江戸時代の俳人与謝蕪村が、来年生誕300年の「年」を迎えるため、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21では、全国初の「生誕300年記念祭」の諸行事を全国に先駆けて、蕪村生誕地大阪毛馬で実施する計画を進めている。

 ところが、蕪村を後世に継承して行く考えに同意してくれている大阪市会議員(前議会副議長)の杉田忠裕氏が、「蕪村と若冲の生誕三百年展覧会が、今
滋賀県甲賀市信楽町の博物館「miho museum」で開かれているので行きましょうか」と云って誘われた。

 これには驚きだった。我々と同趣旨の「生誕300年記念展覧会」と同じ表題を付けて、滋賀県の博物館で、何と半年も早く開催されているということ自体に驚嘆だったのだ。瞬間的に、これを見逃す訳にはいけないと思った。杉田忠裕氏にご案内をお願いした。

 7月31日午後1時、杉田忠裕氏の運転する自家用車に、筆者と同じNPO理事渡邊征一郎氏を同乗させて貰い、大阪から新名神高速道路を疾走して、1時間40分掛かって信楽インターチェンジを下車。

あと、囲まれた山や谷を遠望しながら、幾つもトンネルを抜ける道路を通って15分走り、信楽町博物館の駐車場についた。そこからまたバスに乗り換えて10分ほど行き、ようやく本番の博物館「miho museum」に着いた。

同博物館は、1997年11月世界的な建築家・イオペイシの設計によるもの。80%を地中に埋設したユニークな設計。敷地面積:30万坪、美術館棟(床面積);17,400u。観るだけでも、博物館に入館してみても巨大建物とわかった。

これから本題。

現場で杉田氏の知人2人と合流、5人で閲覧を始めた。この日は平日の金曜なので 閲覧者は少ないだろうと思ったが、なんと大勢が並んで見学している。

「生誕三百年の蕪村と若冲」は、尾形光琳が亡くなった後の同い年同士の天才絵師だったのだ。蕪村は図画と共に俳句も吟行したが、若冲は画家として専念した人物。

 博物館での2人の絵画等の陳列は、223点陳列されていた。蕪村に夢中な我々5人は、「蕪村絵画と俳句添付絵画」を凝視してまわった。現在、展覧中の蕪村筆閲覧図は、80点ある。

この中には、閲覧予定も含め
・「花守の」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「学問は」与謝蕪村筆:俳句付き(8月4日〜)
 ・「雪月花」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「盆踊図」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「又平に」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「奥の細道図巻」与謝蕪村筆
 ・「山水図屏風」 与謝蕪村筆
 ・「夜色楼台図」 与謝蕪村筆 (国宝・8月18日〜)
 ・「蜀桟道図」  与謝蕪村筆
  などがある。
 
 「蕪村図画は、各種の書籍で、同上の「写真」は何度も見てきたが、目の前に与謝蕪村筆の実物の絵と筆文字を見ることが出来た上、「蕪村、謝寅、東成蕪村」の自筆名前を見つめた時、不覚にも感動の涙が溢れ出て、止まらなかった。蕪村の生きざまと郷愁の想いを多少知っている筆者にとって、実物画のインパクトは強烈だったのだ

 この閲覧の最中、博物館の梨純次参事から、去年新しく見つかった「蕪村絵画」3図があり、世間に余り知られていない3図だとして閲覧を勧められた。

維摩(ゆいま)、龍(りゅう)、虎図(とらず)の与謝蕪村筆3図であった。そういえば、維摩も龍、虎図は、確かに書籍の写真でも見たことはない。これも今回閲覧の感動の一つだった。

閲覧者は、我々の金曜閲覧日には900人もあったという。8月1日(土)には、1500人を超えたということだった。

「蕪村と若冲の生誕300年展覧会」は8月30日まで行われる。滋賀県信楽町の博物館は非常に遠いけど、筆者の涙を誘うような感動を招いてくれるのは確かだ。是非「蕪村俳句愛好家」の方は、博物館の閲覧をお勧めししたい。                              (了)
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2015年07月26日

◆蕪村公園、知ってる?

◆蕪村公園、知ってる?
            NPO法人近畿フォーラム21

毛馬 一三 



与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句も、この記念碑に刻んである。

この他の顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所の橋の名だ「春風橋」で、蕪村直筆文字の「春風橋」が刻まれている。ところが、有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、この3件しかなかった。ここに「蕪村公園」が誕生したのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な農家(庄屋・問屋・宿屋)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失なった不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って俳諧に励む一方、南宋画家にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承文献が殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これ迄の長い間、大阪で「蕪村生誕祭」が開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることにも想い付かなかった主理由だった。

しかし、10年頃前から都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的に顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。筆者も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じて、大阪市が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備した。

同「蕪村公園」の整備には、当初、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てるほか、公園内に大きな広場、その周辺には蕪村の句の石碑や蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば大阪が蕪村生誕地であることが知れ渡り、蕪村への集客に繋がることによって、都島区名所に成る筈だと申し入れ続けた。しかし、蕪村公園のシンボルの「東屋」は、浮浪者の溜まり場となり、管理運営上難しいとの判断から、「同屋」の建設は見送られた。

序で乍ら、出来上がった同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点となっており、近くには国の重要文化財「毛馬閘門」がある。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」は、受講生の「入賞作品プレート碑」を既に10基(2015年春現在)建立。「蕪村句」に登場する樹木の記念植栽を支援しており、2016年には「蕪村生誕記念祭」を実施する。
是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村望郷の念」を察して頂きたい。(了)
posted by 21キンキ at 08:59| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月17日

◆「第28回 575で遊ぼう!」開講 

◆「第28回 575で遊ぼう!」開講 
         
NPO法人近畿フォーラム21  事務局



「第28回 アンジュ5・7・5で遊ぼう!」講座が7月16日に、15名の受講生が出席して
開講しました。

先ず最初に、石垣講師が、今回第28回のお題は「 夜店、ハンカチ」にしますと、発表されました。

つづいて、講座の恒例に従い石垣講師が、前27回の「お題 日傘、黴」について振り返る講演をされ、受講生出「優秀な5・7・5 2出句紹介」と「講師寸評」をされました。下記に掲載します。

@ 日傘さし二人で行ったカフェかな
<寸評> 夏の暑い日に、友達と二人でカフェへ行った。暑いのを我慢した後、良く冷えた飲み物を会話を楽しみながら飲むのは格別であるとの心情を上手に表現している。

A 餅にカビ生えても平気で食べる父
<寸評> 冷蔵庫の無かった時代、少し餅を置いておくと直ぐにカビが生えた。昔の人はカビを取って焼き、平気で食べていた。食べ物を大事にしていた時代の575である。

(2作品とも、季節を見事に表現され、講師寸評にあるように「作者の心情と、食べ物を大事にしていた時代」を詠まれた句ですね。      事務局 )

講座は、いよいよ今回のお題の挑戦にはいりました。

石垣講師が受講生の作品つくりの参考になる2例句を示されました。
@ ハンカチの二枚目使う午後となる
<解釈> 暑い日になると思いハンカチを二枚用意していたが、午後になり辛抱できず既に二枚目のハンカチを使ってしまった。

A 夜店へと赤き鼻緒の下駄履いて
<解釈> <カラコロと音を立てながら浴衣を来たこどもが親に手を引かれ夜店に向かっているよ。喜び勇んで夜店へ向おうとするこどもの心情を表している。>

この日の受講生のお題の5・7・5作品から、1作品が紹介され、講師寸評が発表されました。
  ・夜店にて子供楽しむ夏休み
  <寸評> <夜店にこどもを連れてきた親が、こどもの喜ぶ顔をみながら自分も楽しくなっている気持 ちを素直に表現した素晴らしい5・7・5作品である>

このあと石垣講師から「5・7・5作品つくり心構え」について、際立った論説が述べられました。
  <作者の気持ちを出す。正直に表現する。
  575は、多くの説明が省略されているので、読み手に取って受け取り方が違う。
  それぞれの光景を感じとって貰えるように。>ということでした。
  
その上で、大切な次回以降の進め方を語られました。
  <講座を始め1年が経過しました。
  より楽しめる新たな講座の進め方を考え、実現して行きたいです。>

  最後に講師から、次回のお題は「盆踊り、朝顔」とすると発表されました。

(受講生の皆さん!石垣講師は、俳誌「うまや」主宰の有名な俳人です。その石垣講師から、素晴らしい講座を受けられ。5・7・5つくりの心情と楽しさを熟知されながら、思いに添った優れた作品を沢山つくられました。講座は1年経ちました。皆さんのご努力と熱心さは、各界からも注目されています。どうか生甲斐に一端として、これからも頑張って頂きます様祈念致します。     事務局 )

以上
  
posted by 21キンキ at 19:34| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月16日

◆蕪村の父が死んだのは新型インフル

NPO法人 近畿フォーム21
石岡 荘十(原作)


(2015年07月16日)


<主宰者:畏友石岡荘十氏のタイトルは「新型インフルで死んだ法皇」であったが、偶然にも大阪俳人与謝蕪村の父親(庄屋主)が死んだのも、この新型インフルだったので、タイトルを変えて掲載させて頂いた。>

では、石岡氏寄稿の「新型インフルで死んだ法皇」本文に戻る。

インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と、首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。

南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。

「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1000年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため、死亡したと書かれている。

ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。

これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。

さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。

天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。

そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。

感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。

「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。

スペイン風邪については、明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。

つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。

スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。

「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10〜13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。

アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないので、ここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。

40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。

1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。

2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。

ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。

これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。

「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。

過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。

政治の威圧ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。
(2014年12月16日掲載)



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2015年06月26日

外国学生の俳句募集 NEW!


平成27年6月26日

NPO法人近畿フォーラム21 理事長 池尻 一寛
蕪村顕彰俳句大学      学長  川原 俊明

諸外国の学生諸氏へ
俳句応募のお願い 

NPO法人近畿フォーラム主催「蕪村顕彰俳句大学」は、第5期から「国際俳句交流事業」を開始し、平成24年9月23日開催の同期「表彰式」で、第1回の「国際俳句蕪村賞」を授与致しました。

この「国際俳句蕪村賞の授与」には、「国際俳句交流」の「絆」を結んだ、フランス、ウクライナ、ロシア、台湾の諸外国の学生を含めた沢山の俳句愛好者から、素晴らしい作品を寄せて頂きました。

表彰式では、この作品の中から優秀句を選考し、「大阪府知事・大阪市長・当学長」名で「国際俳句蕪村賞」を授与したのです。これらの優秀句は余りにも優れた出来栄えだったため、日本の俳句愛好家から大変な評価を頂きました。

更に、画期的な慶事がありました。平成25年2月6日付で、日本政府(外務省所管)の独立行政法人「国際交流基金」(英語名:Japan Foundation)から、第6期表彰式の「後援名義使用」承認と「国際俳句蕪村賞の国際交流基金理事長賞授与」の承認を正式に得たのです。

同法人は、「国際文化交流事業を総合的かつ効率的に行なうことにより、我が国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献し、もって良好な国際環境の整備並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与することを目的とする(独立行政法人国際交流基金法第3条)」という団体です。

政府からこうしたご支援を受けたことにより、目指す「国際俳句交流事業」は、世界へ大きく広がりを見せるものになると信じております。

これからは日本の伝統俳句を通じて「世界の人たちと"こころとこころ"をつなぎ、国際俳句交流を進める」活動を行って参ります。

そこで、お願いでございますが、既交流先の大学と諸外国大学の学生諸氏に対して、ご随時に「俳句の応募」をお願いしたく存じます。応募された作品には、大学教授や、俳句結社の主宰者等から「ご選考と評論」をお願いすると共に、「俳句の作り方のご指導」を受けて頂きたいと思っております。

どうか作品が出来ましたら、下記の「蕪村顕彰俳句大学」事務局にメールで、ご投句をお願い申し上げます。次世代を継ぐ学生諸氏に「日本伝統俳句文化」を学んで頂き、国際相互理解の増進と良好な国際環境の整備を、ご一緒に進めて行こうではありませんか。

今期第11期の「「国際俳句蕪村賞」へのご応募の締切日は、2015年7月15日で御座います。どうか下記の当事務所宛に、沢山のご応募を頂きますよう心からお願いを申し上げます。

以上、お願いまで。

宛先:
〒534−0016大坂市都島区友渕町1丁目3−15−108
NPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」
 池尻 一寛

E−mail:jimukyoku@buson-kensho-u.com
 
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2015年06月20日

◆第26回「575で遊ぼう!」開講

NPO法人近畿フォーラム21  事務局
 

6月18日に第26回「アンジュ5・7・5で遊ぼう!」講座が開講しました。

お元気な15名の受講生が、石垣講師の講座に熱心に参加されました。

講座の冒頭に石垣講師が、今回26回のお題は、「油虫、夏帽子」としますと、皆さんに事前に伝えられました。

講座は、上記作品つくりに取り掛かる前に、石垣講師が恒例の「前回のお題:梅雨、田植え」に出句された受講生の作品の中から、お二人の「秀作」を発表され、講師「寸評」も添えられました。

下記に掲載します。

@梅雨晴れて光さしこみ虹が出る

<寸評> 梅雨時期の雨の降る日に部屋にいる。雨が止んで太陽の光が差し込んできた。
 ふと、部屋から空をみるとキレイな虹が出ていた。
 雨が止み色鮮やかに出ている虹を喜ぶ気持ちが出ている。

A歩こう会梅雨の晴れ間を楽しみつ

<寸評> 楽しみにしていた歩こう会の日。うまい具合に雨が止みお天気になった。
 お友達との歩こう会を楽しむ素直な気持ちが出ている。

(@の作品は、梅雨晴れて光が差し込み出し、窓を開けると、空に「綺麗な虹」を見つけたという「写生」の5・7・5句は、素晴らしいですね。
Aの作品は、梅雨の晴れ間に歩こう会を愉しむ心情と行動が、如実に伝わってきて、実に感動致します。ー事務局)

この後講座は、今回のお題「油虫、夏帽子」の作品つくりに移り、まず石垣講師が「貴重な例句」を発表されました。

@ 油虫叩きいちいち見せにくる
<講演> 家に出てきたごきぶりを、こどもが喜々として退治した。褒めて欲しくてこんな大きなごきぶりを退治したといちいち見せに来る様を詠っている。

A 校長の机の上の夏帽子
 <講演> 先生も生徒も夏で暑い。校長室を訪れた生徒が校長の机の上をよく見てみると夏帽子がある。尊敬する校長先生も人間で暑いのだなあと感じた心情を表現している。

この講師の「例句」を参考にしながら、15名受講生の方々は、今回のお題「油虫、夏帽子」の作品つくりに挑戦されました。

石垣講師が、今回のお題から出来上がった受講生の作品から、1句をご紹介されました。

・油虫暗い所に姿消し
<講師寸評> <台所であろうか。出てきたと思ったら足早に暗闇に消えてしまい退治できなかった思い出を素直に表現した素晴らしい5・7・5作品である。>

この句のご紹介に続いて、石垣講師は5・7・5作品つくりに挑む心がけについて、講師評を述べられました。
  <光景を捉える。作品の中に一つ焦点となるポイント(見せどころ)を入れる事。
  読み手の共感を得られる、味わい、面白みのある作品を作って欲しい。>


講座は、これで締めくくられ、石垣講師から、受講生が最も関心のある次回のお題を「日傘、黴 」としますと、伝えられました。

 その上で、次回以降の展開を
  <作品に気持ちが出ている。気持ちを素直に表現するを目標に講座を進めていく>
ことにしましょうとも述べられました。

(本当に、石垣講師のご指導が効果を上げて、受講生の方々の5・7・5作品は、会を重ねる毎に成果を益々上げています。各界からも関心が高まっています。喜ばしいことですね。受講生の皆さん!頑張って下さい。
− 事務局)以上
  
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2015年05月24日

「蕪村生誕300年祭」ご支援を


   平成27年5月24日

NPO法人近畿フォーラム21主催 
   講座・蕪村顕彰俳句大學
        学長  川原俊明 (弁護士)
                           蕪村生誕300年記念行事実行委員会
                           委員長 村田正博(市大教授)
                          

NPO法人近畿フォーラム21は、大阪市が大阪市毛馬町に「蕪村公園」を造営したのを機に、大阪輩出の江戸時代三大俳人・与謝蕪村を顕彰すると共に、蕪村生誕地である大阪市毛馬町(江戸時代:摂津東成郡毛馬村)を広めるために、平成22年4月に講座「蕪村顕彰俳句大学」を設立、講座を開講致しました。

同講座では、大学教授や俳句結社講師による「蕪村俳句の歴史」「句会」講座を行い、第1期講座終了以来、既に11期までに5年が経過しました。

各期の後援と選考した最優秀作品の受賞に「大阪府知事賞・大阪市長賞・独立行政法人国際交流基金理事長賞・大阪市教育委員会委員長賞・講座学長賞」を授与する表彰式行っております。さらに8期からは新しく公益法人関西・大阪21世紀協会の後援と同協会理事長賞を授与致しました。

表彰式当日には、近郊の蕪村公園内に「最優秀句プレート碑」を設立していますが、今期までに既に10基揃っています。

講座は、受講生の間で大いに盛り上がると共に、兜カ學の森との共同で全国や諸外国からも沢山の作品応募が相次ぐなど、予期以上の反響に驚きと感激を覚えているところです。

 この感動を更に拡大しようと、新しい活動を始めることに致しました。

ご承知のように、松尾芭蕉、小林一茶の生誕祭行事は全国に熟知されていますが、蕪村生誕地が知られていないため、これまでに「生誕祭」は実施されておりません。

このため、蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを全国・海外に広め、同時に「蕪村公園・蕪村俳句」を高揚させるために、蕪村生誕300年を迎える2016年(平成28年)に「生誕記念祭」を開催することとし、ただ今諸準備を進めております。

事業を急ぎ充実させて大阪俳句文化振興と蕪村公園への集客を図るために、この際、地元都島区を始め、各界の方々のご参加と海外との交流も進めながら、「生誕祭」を創生して参りたいと考えております。

お蔭様で、蕪村が氏子として離郷するまで参拝した現存「淀川神社」と、蕪村生誕顕彰活動継続の「蕪村通り商店街」と300年祭を共同して様々な「お祭り」を進めていくことにしております。

どうか大阪文化振興と諸外国からの大阪「蕪村公園」への集客などのために貢献したい当NPO法人と、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の主旨にご賛同の上、俳句作品のご応募を含め、各種の「お祭り」の推進に諸ご賛同とお力添えをお願い申し上げる次第で御座います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。
                   NPO法人近畿フォーラム21
                      理事長   池尻 一寛
                   
蕪村生誕300年記念行事実行委員会 事務局
電話(FAX)06−6928−9773
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2015年05月20日

◆与謝蕪村の生誕300年記念祭 開催

                        NPO法人近畿フォーラム21 事務局
 
与謝蕪村生誕日は不明だ。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村は、江戸の享保元年(1716)に生まれているが、肝腎の生誕日は不明だ。

しかも与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということも、江戸時代から「正確」に知れ渡っていなかった。

生誕地は、明治時代になって、蕪村俳句を広く世に評価し紹介した正岡子規でさえ、蕪村生誕地が大阪毛馬村だと、論述していない。

生誕地が「毛馬町」だと分かったのは、なんと終戦直後戦後になって、やっと「証明」されたのだ。しかし前記のように「生誕日」は、今になっても分からない。

与謝蕪村の生誕300年の年になる、来年2016年の年に記念祭行事に取り組もうと「蕪村生誕300年記念祭行事活動」を始めようとした際、「生誕日」がまだ不明なのには、戸惑わされた。「生誕日」に合わせて300年記念祭をやれないのだ。

しかし、終戦直後戦後とはいえ、生誕地が「毛馬町」だと「証明」されたことで、蕪村が大阪俳人であることが明らかになった。「生誕日」は不明ながらも、来年から初めて「生誕記念祭」を、生誕地大阪毛馬町でやれるのは、こんな歓喜なことはない。

こるから与謝蕪村生誕のことを追々。

先ず、生誕地が大阪毛馬町だと「証明」されたのは、なんと終戦直後だという事を教えて頂いたのは、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21「蕪村顕彰俳句大学講座」で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授だった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話は、次のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。

しかし、残念なことにその舞台となる毛馬の淀川馬堤近くが自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

だがその後、願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これを「物証」として、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かった筈だが、そうならなかった。これには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地の複数説」を逆に加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」される「書簡」が前記の如く、終戦直後偶然にも、奈良県で見つかったのだ。
これが歴史的実証となった。弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「蕪村直筆」が、「毛馬生誕地」と確定したものの、終戦直後の認定だから、本当に遅きに失したと言わざるを得ない。

これが「蕪村生誕地の複数説」を打消しし、「毛馬村を生誕地」とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

これにより、生誕地が毛馬村であり、生誕の年も2016年(平成28年)であることが重複して不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも、無かったことになるだろう。>

ところで、終戦後に生誕地が「大阪毛馬町と証明」が確定したが、今ですら地元大阪でも、「与謝蕪村が大阪俳人」であることを知らない市民が多い。

次世代を担う児童生徒の教科書に取り上げられていないことを考えると、文部科学省の無配慮が指摘され、全国の児童生徒が大阪毛馬の生誕地のことを知らないことは、これが主因だ。残念で仕方がない。

更にはまだ、蕪村生誕日が分かっていないことも、文科省の研究が進んでいないことだ。学者に呼びかけて、探究を進めてほしい。

筆者主宰の「蕪村顕彰俳句大学講座」では、2016年(平成28年)の蕪村生誕三百年に、生誕日は不明でも、この年に「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化振興と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」と尋ねた

答えは、「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上する。

恐らく奉公人だった母と、庄屋・問屋の父が亡くなってから、家人たちによる私生児への極めつけの「いじめ」に合い、そのために十七・八歳で家を出奔、江戸に下ることを考えざるを得なかったのだろう。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

最後にお願い。

どうか、蕪村生誕300年を迎える2016年・来年の春期から、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」開催を、まず大阪市立大学主導の「蕪村シンポジューム」開催を五月から始め、氏子蕪村が参拝した実績のある現「淀川神社」と、近郊の「蕪村通り商店街」と共同し、適切な時期を選んで「300年記念のお祭り」を進めることにしている。

是非共、皆様のご賛同とご支援を、改めてお願い申し上げます。(了)




posted by 21キンキ at 07:23| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三



与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶は、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれ、町内にあるJR黒姫駅から、地元の子供も含む200余人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていない。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられる。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。
◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。
<参考:ウィキペディア>

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合った精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。蕪村は、これが大阪毛馬村から抜け出し、江戸を目指したことに繋がっていく。

このことが、一茶の生涯を記述することによって、蕪村の共通の苦衷と繋がることが明らかになるだけに、上記のことを書き留めて置きたかった。

「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「蕪村生誕300年祭記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施することにしようと、今、諸計画の準備を進めている。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念諸行事を、来年の適切な時に開催したい。大阪の俳句文化振興と蕪村俳句後世継承に貢献したいと考えているからだ。
(了)

posted by 21キンキ at 07:21| 提言雑言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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