2016年02月05日

◆望郷の念から還って来る与謝蕪村

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し今年の2016年に多彩な「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。

先行事業とし今年1月23日、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を建立」し「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせた。

次の事業は、先述の大阪市立大学の村田正博教授と共同して5月1日(日)午後1時から、都島区民センターで、学者や俳句会主宰者などが「蕪村生誕300年を祝い」「俳句の面白さやつくる愉しみ」の講演や討論を行う「シンポジューム」を開催することだ。朝日新聞記事でこれも読んだ大阪府下や地元の人から「参加する」ための問い合せの電話が、驚くほど多くやってくる。歓喜だ。蕪村生誕300年祭事業にムードは盛り上がってきた。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでもこうした「蕪村生誕300年祭」事業を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。まだ事業の計画は進んでいる。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、淀川神社に「蕪村魂」だけでも還って来て貰いたいと思っていたことが実現するだろう。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を生誕300年後に現実に繫いでやることが、筆者の重き願いでもある。(了)
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2016年01月02日

◆今年は「蕪村生誕300年」の「年」

〜2016年01月01日〜

 
NPO法人近畿フォーラム21
                     理事長   池尻 一寛



明けましてお目出度う御座います。

いよいよ今年は2016年になり、「蕪村生誕300年」の「年」を迎えました。

そこで、我々NPO法人近畿フォーラムが主宰し、蕪村顕彰俳句大学(学長 川原俊明弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会(委員長 村田正博大阪市大文学部教授)、兜カ學の森(社長 姜h東)、淀川神社(宮司 横路良)と共同して、新年から各種の「記念行事」を行います。

残念なことに、江戸時代の三大俳人の内、芭蕉と一茶は、生誕地で毎年盛大な「御祭り」が行われていますが、与謝蕪村だけは、生誕地の大阪毛馬町で「生誕記念御祭り」が行われたことが在りません。ですから、大阪地元ですら与謝蕪村が、大阪毛馬生誕の俳人だとは、中々知られていないのです。

これでこれを我々の努力で、俳人蕪村の顕彰と俳句文化の振興、そして大阪毛馬生誕蕪村を後世に継承しようというのが、行事共同者との目的であり、願いなのです。

では、「生誕300年」の「年」を迎える与謝蕪村のことを、改めてこれから追々。

与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。丁度今から300年前の享保元年です。これだけははっきりとしています。ところが、肝腎の「蕪村生誕日」が分らないのです。

蕪村(幼名―寅)は、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて産まれまれました。庄屋の父の正妻には娘が居たようですが、蕪村は、庄屋を引き継ぎ出来ない私生児だとして、一族からは冷酷な扱いに遭わされたらしいようです。

そのうえ母親と父が若くして死去したあと、蕪村が庄屋跡継ぎに成れることはなく、後年に一時、後継者の役割を果して欲しいという身勝手な一族要請の仕掛けもあったようですが、「後継者資格なし」の理由が再興して、結局、生誕庄屋自体は大阪豪商から奪われるように買い取られ、家伝庄屋は潰れてしまったのです。

このためでしょうか蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬の出奔を余儀なくされ、江戸に下ったのです。上記の劣悪な諸事情からでしょうか、蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていないのです。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人でした。蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号しています。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師早野巴人が没したあとは、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊しました。その際「蕪村」と号したのです。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えました。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けたのです。島原(嶋原)角屋で俳句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごしました。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されています。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、68歳の生涯を閉じました。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に苦吟にやって来ています。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場でした。ここから、大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っているのです。

しかし船着き場の源八橋から「生誕地だった毛馬村」まで歩いても、僅か30分ほどしかかかりません。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかったのです。

やはり母と父の死後、家人から苛められ過ぎて、再び帰郷すれば脳裏全体に辛苦が走ることを考え、終生このことが「怨念化」して郷里立ち寄りを阻んだのでしょう。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いありません。

さて、ここから大切な私たちの「蕪村生誕300年の年」の行事の活動です

蕪村の父はいまも存在する「淀川神社」氏子でした。ですから父母と一緒に蕪村は「淀川神社」に参詣しことは江戸時代の常習でした。蕪村は幼少の頃から江戸へ出奔するまでの苦衷の念に浸されていたのころ、氏子として「淀川神社」に祈願参詣したでしょう。

従ってこのご縁を取り入れ、念願の「蕪村生誕300年の御祭り」の最初行事として、今もある淀川神社境内に、協賛者のご協力をえて昨年暮、高さ1m60pの「蕪村銅像を建立」しました。

そして、建立した「蕪村銅像の除幕式」を、正月23日午後1時から行うことにしています。まさに最初の「記念行事」になります。

続いては、3月10日に、大阪市大と協力して大阪天神橋六丁目の「大阪区民センター」で「講演会」開催し、蕪村通り商店街の会長や建築家に出演してもらい、蕪村に馴染むまちづくり計画の提示を基に「討論会」を実施します。これが「蕪村生誕300年の年」からの蕪村まちづくりに着手する二次目の行事です。

更に5月1日の午後1時からは、「都島区民センター」で、蕪村生誕300年行事実行委員長・村田正博市大教授主導で、盛大な「蕪村生誕300年シンポジューム」を、学者や俳人、受講講師、弁護士が参加して「講演会」「討論会」を開催します。大阪で「蕪村を主題としたシンポジューム」が開かれるのは、これが初めてです。

そして9月11日には、株o句界と共同して、全国・地元・諸外国から俳句作品を募集し、優秀句の「表彰式」を行います。その優秀句を近郊の蕪村公園に「プレート碑を建立し、除幕式を行います。更にはその公園内に「生誕300年を祝する記念植樹」や「御祭り踊り」等の「300年記念行事」を行うことにしています。

何としてでも「蕪村生誕300年記念祭」に実効をあげ、大阪俳人与謝蕪村の名を、NPO法人のホームページや都島区役所の広報、地元・全国俳句愛好家等を通じて、国内外に広めたいと考えています。後世の継承していくのも、当然の使命です。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、今年の「蕪村生誕300年記念祭」開催時に、「蕪村の魂」だけでも大阪毛馬の地に飛来して貰いたいと思っています。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、願いなのです。(了)
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2015年12月22日

◆「蕪村銅像」を大阪「淀川神社」に建立

NPO法人近畿フォーラム21  毛馬 一三



2015年12月21日

平成28年1月から、いよいよ「蕪村生誕300年の年」。江戸時代三大俳人の与謝蕪村は、300年前の1716年享保元年に大阪毛馬村に生まれたことだけは、はっきりしていますが、肝腎の「生誕の日」は未だ不明です。

しかし2016年は上記の通り、「生誕年300年の年」を迎えることになります。

筆者が所属するNPO法人近畿フォーラム21は、6年前から「大阪俳句文化振興を図る活動のひとつとして、蕪村生誕300年を顕彰する「講座・蕪村顕彰俳句大学(学長川原俊明・弁護士)」を立ち上げ、同講座開講を運営しつつ、兜カ學の森とも共同して、全国俳句大会も開催し、最優秀句の表彰式をおこなって来ました。

ところがどうしても困惑極めるのは、「蕪村生誕の日」が分からないことです。分からないことは、大阪毛馬町生誕の「生誕300年」の「御祭り」を、来年のいつの日に、如何なる行事をすすめたらいいかが直面する難問でした。

そこで、まず世間に広く知られている大阪淀川堤防上の「生誕記念碑」に匹敵する「蕪村銅像」を建てることが、効果的だとの考えにNPO法人理事会の意見が合致し、立案作業を進めてきました。

では、「蕪村銅像」を建てる場所をどこにするのかが最大の課題でした。「銅像建立」によって蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを、地元だけでなく、全国・諸外国の俳句愛好家にどしどし「銅像」を見に来て貰うための「最適地」は、一体何処がいいのだろうか、これに関して詳しい調査をすすめました。

そんな時に、「最適の建立場所の候補地」が上がったのです。驚嘆でした。これはこれから追々。

蕪村は、摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)の庄屋で生まれました。庄屋は近郊にある「八幡神社」と「淀川神社」の「氏子」でした。江戸時代は、ともかく生誕のお祝いや商売発展の祈願、生活安泰の祈願、悩みからの脱皮の祈願などに期を捉えて、氏子たちが「神社」に参詣していたことは、江戸時代の慣習であり、熱の籠った常習でした。

ですから「二つの氏子神社」に、与謝蕪村(寅)が、東成郡友渕村で育った幼少の頃、庄屋の「氏子」の父と母につれられて氏子参詣を続けていたであろうということが、地元毛馬町の情報として急速に浮かび上がって来たのです。

序でながら記しますと、もうひとつの「八幡神社」は、明治に近郊の「桜宮神社」と合祀し、姿を消しました。従って、現存する毛馬町の氏子神社は、「淀川神社」だけになっています。

と云うことは、蕪村が参拝したと称される氏子神社の実像は、今では「淀川神社」だけしか、残っていないということになります。

このことから筆者は、動きだしました。早速注目の「淀川神社」を訪ね、横呂良宮司と神社の座敷で、同神社の歴史と蕪村参詣の歴史的風習を巡る話し合いを交わしたのです。
すると、横呂良宮司は、神社は焼却の過去もあり「淀川神社への参詣書はないものの、江戸時代慣習から察すれば、蕪村氏子一家がここに参詣したことは間違いないことでしょう」と、意見が一致しました。

ですから、蕪村が幼少の頃、悩みに包まれた母と参詣に通ったのは想像に難くなく、生家相続に絡まされ悩みの果てた蕪村が、駆け込み参詣を行ったことも推測出来る経過を飛び出してきました。

更には、17・18歳の頃、生家「庄屋」を整理して江戸に下る決意を問い掛ける参詣も、当然氏子の立場で「淀川神社」に命懸けで詣でたこととは、当然のことだと断言できることも一致しました。

そこで筆者は決意しました。その場で横呂良宮司に「淀川神社の境内」に「蕪村銅像」を建立させて頂けませんでしょうか。望郷の念に終生纏わり付かれた蕪村の心を迎い入れ、蕪村が参詣したのがここの「淀川神社」だと後世に伝承しましょうとお願いしました。

横呂良宮司も話の進み具合を快く受けいれられ、実はこのあと「神社役員会」を開催されて、この問題を協議して頂いたのです。その結果的、何と「神社役員全会一致」で、境内への建立が決定されました。
神社に俳人の銅像が建立されるということは、画期的なことでした。

筆者は歓喜し、早速これを川原俊明学長と「蕪村生誕300年行事実行委員会・村田正博委員長(大阪市大文学部教授)」に報告した処て喜ばれ、勿論NPO法人理事全員も「蕪村銅像建立先」に感動しました。

本当に「淀川神社境内」に歴史的、かつ蕪村幼少時代の本人と父母の参詣心情を取り入れて、「建立」賛同にご努力された横呂良宮司と「神社役員会の方々」に心から御礼を申し上げました。

これから本題。

NPO法人近畿フォーラム21と、淀川神社(大阪毛馬町)は事業協力して、大手建設会社に発注し、平成27年12月21日正午前から、神社境内で「蕪村銅像建立」工事を実施します。工事は、午後1時前には終わる予定です

そこで、出来上がる「蕪村銅像」の形は、下記の通りです。

・「蕪村銅像」自体の、高さは(地面より)1m60p。

・「蕪村銅像」正面は、台座石95pの上に、鉄製の「蕪村像本体」(土台付)65p。「銅像横幅」は、45p。
 
・「蕪村銅像」の正面高さ(台座付)は70p、銅像幅は(台座付)で45p。

・「銅像」正面の台座の中には、「与謝蕪村銅像」、「故郷毛馬生誕300年記念」と記しています。
更にその下に多数の「建立協賛者名」が記されています


そしてこの「蕪村銅像」が完成したあと、来年平成28年からの「蕪村生誕300年の年」のスタートに合わせて28年1月23日(土)13時から、「蕪村銅像建立の除幕式」を「淀川神社」で開催します。

 末尾になりましたが、蕪村銅像建立のため、地元・各界の方々から「賛助」にご協力を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

どうか、「蕪村生誕300年の年」幕開けの来年1月23日午後1時には、「淀川神社」での蕪村銅像建立の除幕式を開催致しますので、是非「淀川神社」にお越し頂きます様、お願い致します。 以上

◆なお、全国版「頂門一針」に、上記記事が掲載されました。蕪村顕彰を全国に発信して頂き感謝致します・
全国版「頂門一針」:バックナムバーは http://www.melma.com/backnumber_108241/

  
posted by 21キンキ at 18:23| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月02日

感動した蕪村実物「絵画と俳句」閲覧

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬 一三



 江戸時代の俳人与謝蕪村が、来年生誕300年の「年」を迎えるため、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21では、全国初の「生誕300年記念祭」の諸行事を全国に先駆けて、蕪村生誕地大阪毛馬で実施する計画を進めている。

 ところが、蕪村を後世に継承して行く考えに同意してくれている大阪市会議員(前議会副議長)の杉田忠裕氏が、「蕪村と若冲の生誕三百年展覧会が、今
滋賀県甲賀市信楽町の博物館「miho museum」で開かれているので行きましょうか」と云って誘われた。

 これには驚きだった。我々と同趣旨の「生誕300年記念展覧会」と同じ表題を付けて、滋賀県の博物館で、何と半年も早く開催されているということ自体に驚嘆だったのだ。瞬間的に、これを見逃す訳にはいけないと思った。杉田忠裕氏にご案内をお願いした。

 7月31日午後1時、杉田忠裕氏の運転する自家用車に、筆者と同じNPO理事渡邊征一郎氏を同乗させて貰い、大阪から新名神高速道路を疾走して、1時間40分掛かって信楽インターチェンジを下車。

あと、囲まれた山や谷を遠望しながら、幾つもトンネルを抜ける道路を通って15分走り、信楽町博物館の駐車場についた。そこからまたバスに乗り換えて10分ほど行き、ようやく本番の博物館「miho museum」に着いた。

同博物館は、1997年11月世界的な建築家・イオペイシの設計によるもの。80%を地中に埋設したユニークな設計。敷地面積:30万坪、美術館棟(床面積);17,400u。観るだけでも、博物館に入館してみても巨大建物とわかった。

これから本題。

現場で杉田氏の知人2人と合流、5人で閲覧を始めた。この日は平日の金曜なので 閲覧者は少ないだろうと思ったが、なんと大勢が並んで見学している。

「生誕三百年の蕪村と若冲」は、尾形光琳が亡くなった後の同い年同士の天才絵師だったのだ。蕪村は図画と共に俳句も吟行したが、若冲は画家として専念した人物。

 博物館での2人の絵画等の陳列は、223点陳列されていた。蕪村に夢中な我々5人は、「蕪村絵画と俳句添付絵画」を凝視してまわった。現在、展覧中の蕪村筆閲覧図は、80点ある。

この中には、閲覧予定も含め
・「花守の」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「学問は」与謝蕪村筆:俳句付き(8月4日〜)
 ・「雪月花」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「盆踊図」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「又平に」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「奥の細道図巻」与謝蕪村筆
 ・「山水図屏風」 与謝蕪村筆
 ・「夜色楼台図」 与謝蕪村筆 (国宝・8月18日〜)
 ・「蜀桟道図」  与謝蕪村筆
  などがある。
 
 「蕪村図画は、各種の書籍で、同上の「写真」は何度も見てきたが、目の前に与謝蕪村筆の実物の絵と筆文字を見ることが出来た上、「蕪村、謝寅、東成蕪村」の自筆名前を見つめた時、不覚にも感動の涙が溢れ出て、止まらなかった。蕪村の生きざまと郷愁の想いを多少知っている筆者にとって、実物画のインパクトは強烈だったのだ

 この閲覧の最中、博物館の梨純次参事から、去年新しく見つかった「蕪村絵画」3図があり、世間に余り知られていない3図だとして閲覧を勧められた。

維摩(ゆいま)、龍(りゅう)、虎図(とらず)の与謝蕪村筆3図であった。そういえば、維摩も龍、虎図は、確かに書籍の写真でも見たことはない。これも今回閲覧の感動の一つだった。

閲覧者は、我々の金曜閲覧日には900人もあったという。8月1日(土)には、1500人を超えたということだった。

「蕪村と若冲の生誕300年展覧会」は8月30日まで行われる。滋賀県信楽町の博物館は非常に遠いけど、筆者の涙を誘うような感動を招いてくれるのは確かだ。是非「蕪村俳句愛好家」の方は、博物館の閲覧をお勧めししたい。                              (了)
posted by 21キンキ at 08:22| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月26日

外国学生の俳句募集 NEW!


平成27年6月26日

NPO法人近畿フォーラム21 理事長 池尻 一寛
蕪村顕彰俳句大学      学長  川原 俊明

諸外国の学生諸氏へ
俳句応募のお願い 

NPO法人近畿フォーラム主催「蕪村顕彰俳句大学」は、第5期から「国際俳句交流事業」を開始し、平成24年9月23日開催の同期「表彰式」で、第1回の「国際俳句蕪村賞」を授与致しました。

この「国際俳句蕪村賞の授与」には、「国際俳句交流」の「絆」を結んだ、フランス、ウクライナ、ロシア、台湾の諸外国の学生を含めた沢山の俳句愛好者から、素晴らしい作品を寄せて頂きました。

表彰式では、この作品の中から優秀句を選考し、「大阪府知事・大阪市長・当学長」名で「国際俳句蕪村賞」を授与したのです。これらの優秀句は余りにも優れた出来栄えだったため、日本の俳句愛好家から大変な評価を頂きました。

更に、画期的な慶事がありました。平成25年2月6日付で、日本政府(外務省所管)の独立行政法人「国際交流基金」(英語名:Japan Foundation)から、第6期表彰式の「後援名義使用」承認と「国際俳句蕪村賞の国際交流基金理事長賞授与」の承認を正式に得たのです。

同法人は、「国際文化交流事業を総合的かつ効率的に行なうことにより、我が国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献し、もって良好な国際環境の整備並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与することを目的とする(独立行政法人国際交流基金法第3条)」という団体です。

政府からこうしたご支援を受けたことにより、目指す「国際俳句交流事業」は、世界へ大きく広がりを見せるものになると信じております。

これからは日本の伝統俳句を通じて「世界の人たちと"こころとこころ"をつなぎ、国際俳句交流を進める」活動を行って参ります。

そこで、お願いでございますが、既交流先の大学と諸外国大学の学生諸氏に対して、ご随時に「俳句の応募」をお願いしたく存じます。応募された作品には、大学教授や、俳句結社の主宰者等から「ご選考と評論」をお願いすると共に、「俳句の作り方のご指導」を受けて頂きたいと思っております。

どうか作品が出来ましたら、下記の「蕪村顕彰俳句大学」事務局にメールで、ご投句をお願い申し上げます。次世代を継ぐ学生諸氏に「日本伝統俳句文化」を学んで頂き、国際相互理解の増進と良好な国際環境の整備を、ご一緒に進めて行こうではありませんか。

今期第11期の「「国際俳句蕪村賞」へのご応募の締切日は、2015年7月15日で御座います。どうか下記の当事務所宛に、沢山のご応募を頂きますよう心からお願いを申し上げます。

以上、お願いまで。

宛先:
〒534−0016大坂市都島区友渕町1丁目3−15−108
NPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」
 池尻 一寛

E−mail:jimukyoku@buson-kensho-u.com
 
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2015年05月24日

「蕪村生誕300年祭」ご支援を


   平成27年5月24日

NPO法人近畿フォーラム21主催 
   講座・蕪村顕彰俳句大學
        学長  川原俊明 (弁護士)
                           蕪村生誕300年記念行事実行委員会
                           委員長 村田正博(市大教授)
                          

NPO法人近畿フォーラム21は、大阪市が大阪市毛馬町に「蕪村公園」を造営したのを機に、大阪輩出の江戸時代三大俳人・与謝蕪村を顕彰すると共に、蕪村生誕地である大阪市毛馬町(江戸時代:摂津東成郡毛馬村)を広めるために、平成22年4月に講座「蕪村顕彰俳句大学」を設立、講座を開講致しました。

同講座では、大学教授や俳句結社講師による「蕪村俳句の歴史」「句会」講座を行い、第1期講座終了以来、既に11期までに5年が経過しました。

各期の後援と選考した最優秀作品の受賞に「大阪府知事賞・大阪市長賞・独立行政法人国際交流基金理事長賞・大阪市教育委員会委員長賞・講座学長賞」を授与する表彰式行っております。さらに8期からは新しく公益法人関西・大阪21世紀協会の後援と同協会理事長賞を授与致しました。

表彰式当日には、近郊の蕪村公園内に「最優秀句プレート碑」を設立していますが、今期までに既に10基揃っています。

講座は、受講生の間で大いに盛り上がると共に、兜カ學の森との共同で全国や諸外国からも沢山の作品応募が相次ぐなど、予期以上の反響に驚きと感激を覚えているところです。

 この感動を更に拡大しようと、新しい活動を始めることに致しました。

ご承知のように、松尾芭蕉、小林一茶の生誕祭行事は全国に熟知されていますが、蕪村生誕地が知られていないため、これまでに「生誕祭」は実施されておりません。

このため、蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを全国・海外に広め、同時に「蕪村公園・蕪村俳句」を高揚させるために、蕪村生誕300年を迎える2016年(平成28年)に「生誕記念祭」を開催することとし、ただ今諸準備を進めております。

事業を急ぎ充実させて大阪俳句文化振興と蕪村公園への集客を図るために、この際、地元都島区を始め、各界の方々のご参加と海外との交流も進めながら、「生誕祭」を創生して参りたいと考えております。

お蔭様で、蕪村が氏子として離郷するまで参拝した現存「淀川神社」と、蕪村生誕顕彰活動継続の「蕪村通り商店街」と300年祭を共同して様々な「お祭り」を進めていくことにしております。

どうか大阪文化振興と諸外国からの大阪「蕪村公園」への集客などのために貢献したい当NPO法人と、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の主旨にご賛同の上、俳句作品のご応募を含め、各種の「お祭り」の推進に諸ご賛同とお力添えをお願い申し上げる次第で御座います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。
                   NPO法人近畿フォーラム21
                      理事長   池尻 一寛
                   
蕪村生誕300年記念行事実行委員会 事務局
電話(FAX)06−6928−9773
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2015年05月20日

◆与謝蕪村の生誕300年記念祭 開催

                        NPO法人近畿フォーラム21 事務局
 
与謝蕪村生誕日は不明だ。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村は、江戸の享保元年(1716)に生まれているが、肝腎の生誕日は不明だ。

しかも与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということも、江戸時代から「正確」に知れ渡っていなかった。

生誕地は、明治時代になって、蕪村俳句を広く世に評価し紹介した正岡子規でさえ、蕪村生誕地が大阪毛馬村だと、論述していない。

生誕地が「毛馬町」だと分かったのは、なんと終戦直後戦後になって、やっと「証明」されたのだ。しかし前記のように「生誕日」は、今になっても分からない。

与謝蕪村の生誕300年の年になる、来年2016年の年に記念祭行事に取り組もうと「蕪村生誕300年記念祭行事活動」を始めようとした際、「生誕日」がまだ不明なのには、戸惑わされた。「生誕日」に合わせて300年記念祭をやれないのだ。

しかし、終戦直後戦後とはいえ、生誕地が「毛馬町」だと「証明」されたことで、蕪村が大阪俳人であることが明らかになった。「生誕日」は不明ながらも、来年から初めて「生誕記念祭」を、生誕地大阪毛馬町でやれるのは、こんな歓喜なことはない。

こるから与謝蕪村生誕のことを追々。

先ず、生誕地が大阪毛馬町だと「証明」されたのは、なんと終戦直後だという事を教えて頂いたのは、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21「蕪村顕彰俳句大学講座」で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授だった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話は、次のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。

しかし、残念なことにその舞台となる毛馬の淀川馬堤近くが自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

だがその後、願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これを「物証」として、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かった筈だが、そうならなかった。これには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地の複数説」を逆に加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」される「書簡」が前記の如く、終戦直後偶然にも、奈良県で見つかったのだ。
これが歴史的実証となった。弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「蕪村直筆」が、「毛馬生誕地」と確定したものの、終戦直後の認定だから、本当に遅きに失したと言わざるを得ない。

これが「蕪村生誕地の複数説」を打消しし、「毛馬村を生誕地」とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

これにより、生誕地が毛馬村であり、生誕の年も2016年(平成28年)であることが重複して不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも、無かったことになるだろう。>

ところで、終戦後に生誕地が「大阪毛馬町と証明」が確定したが、今ですら地元大阪でも、「与謝蕪村が大阪俳人」であることを知らない市民が多い。

次世代を担う児童生徒の教科書に取り上げられていないことを考えると、文部科学省の無配慮が指摘され、全国の児童生徒が大阪毛馬の生誕地のことを知らないことは、これが主因だ。残念で仕方がない。

更にはまだ、蕪村生誕日が分かっていないことも、文科省の研究が進んでいないことだ。学者に呼びかけて、探究を進めてほしい。

筆者主宰の「蕪村顕彰俳句大学講座」では、2016年(平成28年)の蕪村生誕三百年に、生誕日は不明でも、この年に「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化振興と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」と尋ねた

答えは、「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上する。

恐らく奉公人だった母と、庄屋・問屋の父が亡くなってから、家人たちによる私生児への極めつけの「いじめ」に合い、そのために十七・八歳で家を出奔、江戸に下ることを考えざるを得なかったのだろう。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

最後にお願い。

どうか、蕪村生誕300年を迎える2016年・来年の春期から、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」開催を、まず大阪市立大学主導の「蕪村シンポジューム」開催を五月から始め、氏子蕪村が参拝した実績のある現「淀川神社」と、近郊の「蕪村通り商店街」と共同し、適切な時期を選んで「300年記念のお祭り」を進めることにしている。

是非共、皆様のご賛同とご支援を、改めてお願い申し上げます。(了)




posted by 21キンキ at 07:23| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月29日

◆第11期蕪村顕彰全国俳句大会 開講


            
NPO法人 近畿フォーラム21
                                蕪村顕彰俳句大学 事務局



蕪村顕彰俳句大学は、江戸時代俳人・与謝蕪村の功績を讃え、全国及び海外の俳句愛好者から作品募集を行ない、大阪俳句文化の振興と後世に継承するために、兜カ學の森と共同して、この4月1日から第11期講座を「蕪村顕彰全国俳句大会」として始めます。

第11期蕪村顕彰全国俳句大会は、大阪で「3句会講座」を行うと共に、上記の通り兜カ學の森と共同して全国・諸外国から俳句作品の応募を行い、「優秀句」にたいする「表彰式」行うものです。

表彰式は平成27年9月13日(日)13時開催から大阪市立淀川小学校 多目的室を会場として行います。

特に大切なことであります地元・全国からの俳句作品の応募は、平成27年5月10日〜平成27年7月15日までにお願い致します。

応募作品については、著名な選考者8名によって「優秀賞」をご選考して頂きます。その選考による「優秀句」については、兜カ學の森の月刊誌「俳句界」に「受賞作品と選者寸評」を掲載します

◆以下、第11期講座「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式要綱」を、詳細記載します。

・主催:NPO法人 近畿フォーラム21
大阪市都島区友淵町1−3−15−108     電話 06-6928-9773
 ・共同:株式会社 文學の森
   東京都新宿区高田馬場2−1−2−8F         電話: 03−5292−9188  
. 大会の概要
  (1)作品応募期間
  平成27年 5月10日〜平成27年7月15日まで(応募先:兜カ學の森宛)
(2)応募対象者
 ・一般の部 
蕪村顕彰俳句大学の受講者及び国内の俳句愛好者
 ・児童生徒の部
   全国の小中高校の生徒
 ・国際俳句蕪村賞の部 諸外国の俳句愛好者
 
(3)作品の応募料
  1,000円(2句)
ただし、蕪村顕彰俳句大学受講生、児童生徒、外国人応募料は無料。

(4) 第11期蕪村顕彰全国俳句大会 表彰式
 ・表彰式は、平成27年9月13日(日)13時開催
 ・式典会場: 阪市立淀川小学校 多目的室
       大阪市都島区友渕町3−5−29(大阪駅市バス停2番から「守口車庫行」市バス乗車。「毛馬橋」下車。右方向へ歩行約10分。公園前に同小学校)
                          

末尾ながら、どうか大阪俳人蕪村俳句を顕彰し、来年28年に迫って来た「蕪村生誕300年祭行事」を成功させるために、第11期は勿論、第13期(28年)の「蕪村顕彰全国俳句大会」に向けて、地元・全国から積極的に俳句作品がご応募されますよお願い申し上げます。        (以上)

posted by 21キンキ at 16:54| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月13日

◆氏神「淀川神社」と共同行事へ

NPO法人近畿フォーラム21主催
                     蕪村顕彰俳句大学 事務局
                     蕪村生誕300年記念行事委員会


画期的な事がまた、出来ました。蕪村生誕地近郊の氏神様「淀川神社」と、与謝蕪村顕彰の諸行事を、「共同」で進めることになったのです。

「淀川神社」は、大阪市毛馬町にある「蕪村公園」のすぐ南側、城北通り道路を渡って、すぐにあります。

どうして画期的なことなのか、これから追々。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、合祀を重ねながらもそのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

また、同じ旧東成郡の毛馬村には明治まで、同じ氏神様の「八幡神社」が在りました。つまり旧東成郡には、昔から2つの神社があったのです。

ここからが重要なこと。

江戸時代の俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な友渕村で生まれました。

生家は、父は毛馬の庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

この北国屋吉兵衛の一家が、正月などに参拝したのが、勿論家の近くにある上記の2つの神社であったことは間違いないでしょう。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家を出る苦衷から脱つしたい時の厄払いも、この2つの神社に参拝したことは想像に難くは在りません。

18歳の時、江戸に出奔する時も、「安全祈願」のためにこれら2「神社」に行ったでしょう。つまり蕪村(寅)と「神社」の関係は、当時の江戸時代の風習から考えても、当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところが、前述のもうひとつの「八幡神社」は、明治43年に政府の方針に従って「桜宮神社」と合祀して姿を消し、神社跡は当時から民間地となっています。

このため、蕪村生誕地近郊に現存する氏神様は、明治以来「淀川神社」のみとなっているのです。この由来を知る人が珠にあり、「淀川神社」を蕪村と繋ぐ唯一の神社だと広めたら如何と、宮司に囁きもあったようです。

ここで、話が急転し出しました。

2年前「淀川神社」宮司に就任された横路良さんが、その趣旨を生かしたいと決意され、地元淀川連合振興町会長の仲介で、蕪村顕彰と蕪村生誕300年祭行事を進めている私たちNPO法人に、ご意志の提案されたのです。

数回詳細協議を重ねた結果、蕪村顕彰の行事を「共同」して推進していくことを急遽合意しました。これが画期的なことなことでした。

合意したのは、大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を発信地として後世に継承することが相互の主意思であることで、一致したためでした。

更には、市内は勿論、全国からの俳句愛好者や観光客を蕪村生誕地毛馬町へ訪ねて貰う顧客誘致に貢献しようということの意思も一致したからです。素晴らしいことでした。

そこで手始めの合同行事として、幅6p縦24.5pの「淀川神社絵馬」を作製します。その絵馬表面に「蕪村の著名俳句と蕪村像」を載せます。

肝腎なことは、同絵馬の裏に、蕪村顕彰俳句大学受講生や一般俳句愛好家、公私立児童生徒等が、自作の「俳句と祈りごと」を手書きすることです。その「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになります。

この他の行事として、平成28年の「蕪村生誕300年祭」に向けて「神社のぼり」を作製し地元の毛馬町や友渕町に飾ります。また境内に「蕪村生誕祭の石碑」を建立することも考えています。

締め括りになりましたが、「淀川神社」内の催事部屋を使って、「句会講座」を開講することも、行事として地元の俳句愛好家の方にご協力頂くことも、すでに進めています。

蕪村自身が参拝したことのある氏神様「淀川神社」と、「蕪村生誕三百年祭」に向けて、こうした蕪村顕彰諸行事を、私たちNPO法人とが「共同」で押し進めて行くということは、実に素晴らしいことです。

いずれにしても、画期的で、予想外の喜ばしいことが、いよいよ始まります。皆様に「ご報告」致します。
posted by 21キンキ at 10:16| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

◆NHK与謝蕪村特番 素晴らしい!

NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大學 
                        

NHKは、7月30日(水)夜10時から大阪俳人・「与謝蕪村の特別番組」を放映しました

この特番は、「歴史秘話ヒストリア」で放映されたので、このようなNHKの超人気番組で取り上げられたのには、大きな驚きであり、喜びを覚えました。

NHKは、<与謝蕪村は、俳句と絵画を極めた江戸のマルチ・アーティスト!「菜の花や月は東に日は西に」など名句風情の秘密とは?国宝「夜色桜台図」に秘められた感動の物語って?貧乏だけど自由なその人の人生を、愛して止まないイッセー尾形さんが演じます」とのキャッチフレーズを、放映事前に告知しました。

<“のたりのたりと”いきましょう>と題する「俳句と絵画を極める」与謝蕪村の生き様の演技は、イッセー尾形さんがこのキャッチフレーズに応じ、蕪村の人生を十分理解した上で、見事に演じました。

蕪村が、「俳句と絵画」に取り組みながら、貧乏と自由さの狭間の中で、実際に弟子たちと議論しながら俳句つくりに取り組む生き方を、なまなましく浮き彫りみせたのです。

特番によると実は、蕪村は12才で母親を大阪・毛馬の生家で亡くしたため、毛馬を出奔し江戸に向かい、幸いにも俳人巴人と出会い俳句に取り組んだのです。しかし巴人は蕪村が27歳の時この世を去り、蕪村は東北を放浪しました。

蕪村は、39才の時、母親の里・丹後の与謝に移り、絵画を志して励んだあと、京都に戻ったのです。ここからがイッセー尾形さんの演技がいきいきと蕪村の生き方を訴えたのに見応えがありました。これが特番の素晴らしい構成でした。

ところでこの特番で驚いたことがありました。「菜の花や月は東に日は西に」という句がどうして生まれたのか。この句は、雄大な写生句だと感じていただけでした。

ところが毛馬地域にとって「菜の花」は、大変な「生活の糧」だったのです。これは、この特番のゲストで出演した関西大学文学の蕪村学者・藤田真一教授が明らかにしました。

「菜の花」からは、「菜種油」が採れ、「行燈の灯り」にすることが出来たのです。イッセー尾形さんが演じる夜中のシーンで、「菜の花」が「灯りの元」となり、句会や俳句作りに役立っていたのです。流石、「菜の花」は、掛替えのないない産物であり。浪速の誇りだったのですね。

東京大学の佐藤康宏教授も、蕪村の魅力を解説され、参考になりました。

特番では、蕪村老年結婚で生まれた「くの」が離縁して蕪村の家に還り、以後老いと病と闘う蕪村がにじみ出てきました。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じました。死因は従来、重症下痢症と診られていましたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされています。特番に出てくる蕪村の墓のある「金福寺」に行って来ています。

特番で、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的でした。

NHK制作プロジューサーのコメントによると、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を一般に知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

とにかく「歴史秘話ヒストリア」で、蕪村のことが初めて放映されたこと自体、大いなる価値があります。

「蕪村生誕300年記念行事」の実行を、この9月から、共催の「文學の森」と共同して開始して参ります。

この素晴らしい「歴史秘話ヒストリア」特番で、7月30日に放映されたのを機会に、本格的に「記念行事を」進めて行きます。NHKでも「蕪村生誕300年記念」の2016年には、蕪村生誕大阪毛馬の生家での「蕪村の幼少の生き方」などを、再び「特番」にして頂きたいと祈念致します。

どうか、俳句愛好家、大阪市民の方は、「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。
posted by 21キンキ at 12:47| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月12日

◆第8期「句会講座」始まる


                               10月11日
                           蕪村顕彰俳句大学 事務局

第7期「句会講座」は、9月22日文學の森と共催して全国からの応募俳句作品を選考した初の「全国蕪村俳句大会」を催し、大きな盛り上がりの中で、第7期講座を締め括りました。

第8期は、いよいよ10月11日(金)から「雨月」俳句会主宰 大橋晄講師による「句会講座」から始まりました。

まず、「全国蕪村俳句大会」で選句された「大橋句会講座・雨月」受講生の作品が紹介され、文學の森賞を受賞された安部和子さんらがあらためて出席受講生から評価を受けました。

このあと、恒例の「句会」が行われ、受講生同士の選句と大橋講師による選句と選評が1句づつ行われました。
今度の「大橋講演」で特に興味を惹かれたのは、「蕪村を巡る沢山の謎(諸説)」でした。蕪村は、生前自らの出身地についてほとんど語らなかったといいます。そのことを追々

その「講演」の素材に取りあげられたのが、毎日新聞社刊「俳句」の中で、石寒太氏が書いた「蕪村に関する20の質問」の「謎の多い蕪村」編でした。

石寒太氏によると、<蕪村は、享保元年(1716)、摂津の国東成郡毛馬村に生まれました。本姓の谷口氏は母方の姓です。(中略)

蕪村は、その地の長者(一説には村長)の家に生まれた、といいます。蕪村が(毛馬で)母を亡くしたのは、13歳のこと。やがて父にも死なれ、家も失い、蕪村は郷里(毛馬)を離れ江戸へ向かいます。享保の末(1735ころ)、蕪村20歳の頃でした。>

と書かれています。

ところが大橋講師は「講演」で、蕪村の母が亡くなった場所について石寒太氏とは異なる所見を述べられました。

<蕪村が「毛馬」を離れたのは、8歳の頃。母の故郷・与謝(「よざ」とも)に、母に連れられて帰郷したものです。母はその与謝で蕪村13歳の時に亡くなったたのであって、「毛馬」ではありません。

蕪村はそのまま与謝で過し、17・18歳の頃に江戸に上ったのです。これについては諸説がありますが、とにかく母を亡くしたのは、「毛馬」ではなく、「与謝」というのが私の説です。>
ということでした。

さて、皆さんはどうお考えでしょうか。

ところで別の「講座」では、下記のような説の話もありました。

<蕪村の母は、与謝から奉公人として「毛馬村長の家」にやって来て、村長に気に入られて村長との間に「蕪村」が生まれたのです。ところが13歳に「毛馬」で母を亡くし、あとを追う様に村長も逝去してしまったので、蕪村の人生は大きく変わりました。

つまり、村長家系の子孫では無くなったため、村長の死去に伴い、家系から外され、村長家の家族の者たちから「強い苛め」に遭わされ、生きて行く意志を阻まれようになったのです。そこで一人で力強く生きて抜くために、「毛馬」を離れ江戸に上ることを決意しというのです。>

上記も、一つの説でしょう。

さて、安永6年(1777)2月23日付、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で、蕪村は「春風馬堤曲」を自解しながら、「毛馬村」が自らの故郷であることを語っています。

これに続く手紙の文章は「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」というものである。まことに平和で明るい幼年時の回想である、と打ち明けています。

これによって蕪村生誕地が「毛馬」であることが、「定説」となりました。しかし肝腎の、蕪村の幼少の頃から青年時代に至る詳細な生き様は、確かに大きな「謎」に包まれたことばかりです。

蕪村の母が、「与謝で亡くなった」という説や、蕪村は17・8歳の頃、「与謝」から江戸に上ったという説など諸説があります。その意味でも今度の大橋講師「講演」には、大きな関心が寄せられました。

さて、第8期」10月には、10月21日(月)朝妻力講師、23日(水)に山尾玉藻講師の「句会講座」が開講致します。楽しみです。





posted by 21キンキ at 19:41| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月31日

◆8月「句会講座」終り、「7期表彰式」へ

蕪村顕彰俳句大学 事務局

         

第7期「句会講座」を締め括る「山尾玉藻句会」が、8月28日(水)に開講しました。これにより、いよいよ「蕪村顕彰全国大会」の開催になりました。
 
 ところで、山尾句会講座の開講日は、残暑厳しい日でしたが、受講生は皆熱心に受講生出句作品を3句づつ選句して一人一人発表しました。 このあと、山尾講師が受講生作品全句の「選句」を行い、1句づつ「選評」を行われました。意味の通じない作品に対して、講師が出句者に問いかけて、更に作品を良くするやり取りが、実に俳句向上に効果を上げていました。

 さて、下記に山尾玉藻講師が今回の「句会講座」で指導された内容と、8月句会の「秀句」を寄稿して頂きました。どうかご高覧下さい

◆8月の兼題「立秋」

 歳時記では「秋立つ」「秋来る」「今朝の秋」「秋に入る」も同類のものとされています。
中で「今朝の秋」はやや主観色の濃い季語と言えます。大いに主観的季語である晩夏の季語「夜の秋」ほどではないにしても、立秋の日の朝に覚える爽やかな感じをやや強い主観で捉えたものです。そこで取り合せの対象はあくまでも日常的な平凡な景や物事が相応しく、余り饒舌にならない方が句として成功しやすいでしょう
尚、「秋に入る」は立秋間もなくの頃の情趣を伝える季語と捉えて下さい。

◆8月句会の「秀句」 

・柏手の印半纏けさの秋      山田美恵子

(襟や背に名前や屋号の標識を染め抜いた印半纏の人物は何かの職人さんでしょうか。朝仕事の出掛に神前で柏手を打ち、仕事の無事を祈っているのでしょう。柏手と印半纏だけを提示し他は何も語っていませんが、「今朝の秋」に相応しい爽やかな印象を与える景です。)   

・鶏鳴の空へ抜けたる今朝の秋   阿久根良一 

 (立秋に関わりなく鶏は朝の鳴き声を上げたのでしょう。しかし、今日が立秋であることを意識する作者の耳には鶏の声が何時になくすっきりと響き、空へ抜けるように感じられたのでしょう。「空へ抜けたるの」の感受が主観的と言えます。)

・今朝秋の黙つてさがす老眼鏡    大山文子

 (恐らくこの作者、日常的に老眼鏡の置き所を忘れては探しているのでしょう。でも今日は「立秋」。それ故の爽やかな気分が手伝い、こころ落ち着いて探している様子です。「黙つてさがす」にそれが窺い知れます。)
  
・秋立つやふはりと被るハンチング  永島文夫

 (立秋を迎えると誰でも心が軽く弾みます。作者もハンチングを被って何処かへ出かけるのでしょう。この場合も「ふはりと」がそれとなく主観的ですね。)
山尾玉藻

以上が山尾玉藻先生の「季題解説」と「秀句と選評」です。素晴らしいご寄稿を頂き感謝致します。

 さて、いよいよ次のこれからの主行事は、9月22日(日)午後1時開催の「蕪村顕彰全国俳句大会」に移ります。「蕪村顕彰俳句大学」と全国誌「俳句界」発刊の「文學の森」と共催して開催するものです。

「一般の部」の俳句作品が全国から1060句も応募が来て、目下同部に授与する大阪府知事賞、市長等4大賞の選考を、専門家による「ご選考」を進めてい頂いているところです。

 ところで、下記に同「全国俳句大会」の式次第の概略纏めましたので掲載致します。どうかご高覧頂き、9月22日(日)の「全国俳句大会」にご来場いただきます様、お願い致します

◆<9月22日午後1時からの「蕪村顕彰全国俳句大会」式次第>

    NPO法人近畿フォーラム21
    主催 蕪村顕彰大学
    共催 株式会社 文學の森
 
    「蕪村顕彰全国俳句大会 第七期表彰式次第」

     ・日 時:平成25年9月22日(日)午後1時 開催
     ・会 場:大阪市立淀川小学校  多目的室
     ・後援:大阪府・大阪市・独立行政法人国際交流基金・学校法人追手門学院
         公益社団法人日本書芸院・大阪文化団体連合会・大阪俳人クラブ

<開会>                           事務局         
      主催学長挨拶           蕪村顕彰俳句大学 学長 川原俊明
     共催代表挨拶           株式会社 文學の森 編集長 林誠司
     来賓紹介                          事務局
     講演 <めぐり読めども「ももすもも」> 〜蕪村のことば〜
            蕪村生誕300年記念事業委員会 委員長 村田正博
     入賞句発表と選評      蕪村顕彰俳句大学 選考委員長  三村純也  
     講師推薦賞と選評         朝妻力・山尾玉藻・大橋晄・浅川正
<授与式>
     ・「一般の部」表彰状授与     
     ・大阪府知事賞
     ・大阪市長賞
     ・学長賞
     ・文學の森賞 

・「児童・生徒の部」表彰状授与
     ・大阪府知事賞
     ・大阪市教育委員会委員長賞

・「国際俳句蕪村賞」表彰状授与
     ・大阪府知事賞

・<閉会の辞>       学長 川原俊明
    
<式典のあと、近郊の蕪村公園で「優秀句プレート碑除幕式」開催>





posted by 21キンキ at 17:08| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

◆第7期7月2回目の「句会講座」

蕪村顕彰俳句大学  事務局



7月2回目の「句会講座」は、同月12日(金)午後1時から大橋晄講師によって開講しました。


同日「句会講座は」、まず「夏帽子」、「梅雨」、「自由題」を兼題として受講生から出句された作品を、受講生がお互いに選句し合うことから始まりました。この中には「蕪村に関わる優れた俳句」も多数含まれており、注目を集めました。


このあと、大橋講師による恒例の「佳作・入選・特選」の選句の公表がおこなわれ、1句づつ詳細に亘って「寸評」を、時間を掛けて進められました。


つづいて、大橋講師による恒例の「蕪村講演」が行われました。今回は「萩原朔太郎著:岩波文庫」の「蕪村句:夏の部」を参考資料として引用しながら、「蕪村俳句が如何に優れているか」の説明がありました。


この「資料」のなかには、非常に興味を惹きつける「蕪村俳句に対する萩原朔太郎の解釈」がありました。序でながら、下記に記して置きます。


<夏の部: うは風に音なき麦を枕もと(蕪村句)>


(解釈:この句は、一面の麦畑に囲まれた田舎の家で、夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が枕元に吹き入れてきたという意である。(中略)


この句を読むと、田舎の閑寂な空気や、夏の真昼の静寂さや、ひっそりとした田舎家の室内や、その部屋の窓から見晴しになったところの、広茫たる一面の麦畑や、またその麦畑が上風に吹かれて浪のように動いて有様やが、詩の縹渺するイメージの影で浮き出して来る。(中略)


また、「上風に」のに、「音なき麦を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を画いてることは言うまでもない。


俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である)。<萩原朔太郎著:岩波文庫>


この「蕪村俳句と解釈」の資料は、この他10ありましたが、特に掲載した同「句と解釈」に、「世界に類なき特異な国語の長所である」という文言が添えられていることに、心を打たれました。


以上、大橋講師の「講演」の内容を掲載しましたが、どうか「蕪村俳句の素晴らしさの解釈」を拝読してください。


大橋講師の次回8月9日の「句会講座」の兼題は、「晩夏」、「百日紅(さるすべり)、自由題です。


大橋教室の受講生の皆さんは、これから9月22日(日)開催の「蕪村顕彰俳句全国大会」に向けて、7月31日締め切りの「俳句作品応募」に集中されるものと存じます。頑張って頂きますようお願い致します。


7月「句会講座」を締め括る山尾玉藻講師の講座開講は、7月24日(水)に迫って来ました。楽しみです。
                           以上

posted by 21キンキ at 14:49| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月11日

◆「国際俳句文化交流」を進めます

NPO法人近畿フォーラム21主催
                  蕪村生誕300年記念事業委員会 委員長
                    村田 正博(大阪市立文学部教授)


〜国際俳句蕪村賞を授与・国際交流基金も後援〜

<NPO法人近畿フォーラム21の活動>

▲市民講座「蕪村顕彰俳句大学」の運営
15余年任意支援団体で活動してきた「近畿フォーラム21」は、平成8年4月26日に大阪府知事から正式にNPO法人として「認証」され、まちづくり支援事業やふるさと文化振興事業を進めてきました。

中心事業は、大阪市毛馬町の地で生誕した江戸時代の俳人与謝蕪村を顕彰する「蕪村公園」が造営されたのを機に、大阪府・大阪市等の後援を受けて、平成22年に市民講座「蕪村顕彰俳句大学」を開講しました。以来「俳句講演や俳句つくり句会」を毎月1回開催し、年に2回「表彰式」を行っております。

当事業は、早くも4年目を迎えましたが、これから特に力を入れなければならない新事業が浮かび上がってきました。それは、大阪俳人蕪村の生誕300年記念年が3年後の2016年に迫って来たことです。
このため、蕪村生誕300年記念事業を推進するため、当NPO法人内部組織に「蕪村生誕300年記念事業委員会」を設立しました。

▲「蕪村生誕300年記念行事委員会」の事業
「蕪村生誕300年記念事業委員会」は、「生誕300年記念事業」を平成24年の秋から始めました。その中心活動として、まず国際俳句交流の呼び掛けに応じて「俳句づくり」の関心が高いフランス、ウクライナ、ロシア、台湾と「俳句」を通じて国際交流を始めました。第5期の「蕪村顕彰俳句大学」の「優秀句表彰式」では、フランス、ウクライナ、台湾からの応募入賞句に対し、大阪府知事賞・大阪市長賞・独立行政法人国際交流基金理事長賞、学長賞による「国際俳句蕪村賞」を授与致しました。

▲俳句を通した「国際俳句交流」基本コンセプト
@世代と時代を超えた“こころ”のコミュニケーション
A文化、言語、国境を越えた“こころ”のコミュニケーション
B江戸時代3大俳人与謝蕪村生誕300年 Heart to Heart Communicationをテーマにしたメモリアル・イベントを諸外国に発信
C「国際俳句交流」を通じて大阪俳句文化振興と、大阪毛馬町「蕪村公園」への集客

▲「国際俳句文化交流」の活動 
“俳人蕪村が大阪毛馬生誕地であること世界へ広める“
“大阪から俳句文化振興を世界の諸外国へ進める”
“海外の大学や俳句愛好家、現地日本語学校、関係施設と俳句交流 ”
“諸外国と“俳句のつくり方”のコミュニケーションを発信する“
“独立行政法人国際交流基金の後援を頂き、日本文化振興の支援に支援して貰う”

<展開1>:その結果、第6期からフランス、ウクライナ、ロシア、台湾の諸外国と
俳句と通じての“こころ”のコミュニケーションが始まった。
@毎年:前期・後期2期開講している「蕪村顕彰俳句大学の表彰式」へ、前期8月20日、後期2月20日を締切日として、諸外国から俳句作品応募をしてもらう。
A蕪村生誕300年祭webサイト上にバーチャル蕪村公園を設置。世界中の人から出句された俳句作品を発信する。
B諸外国から出句された作品の中から優秀句を選考。「国際俳句蕪村賞」として、大阪府知事賞・大阪市長賞・国際交流基金理事長賞、当大学学長賞、佳作賞を授与する
C諸外国の俳句愛好家と日本俳句愛好家との「俳句つくり方」の交流推進
D日本人の精神世界、歴史の深さと人と文化のぬくもりを受け継いでいる親日国としての思いを結んでもらう。

特報:<展開2―>:第7期からブラジル国際交流基金:日本文化センターと、国際交流基金関西国際センターとの間で、新しく「国際俳句交流」活動が結実。ブラジルからは日本語学校や関係施設から「俳句応募」が行われる。また、国際交流基金関西国際センターからは、日本語学習を受ける為訪日する諸外国の研修性から「作品応募」が行われることになった。
       
<展開3−蕪村生誕300年祭>開催事業
・特別「国際俳句蕪村賞」の授与(前記各表彰状を授与)
・シンポジューム(俳句学者・俳人句会主宰者・俳句評論家等参加)
       ・屋形船「句会」(蕪村生誕地近郊の1級河川「淀川」で)
       ・蕪村ゆかりの地めぐり歩き会(生誕地周辺の史跡歴訪)
       ・300年記念主要事業「蕪村公園に蕪村銅像建立」
       ・蕪村公園へ300年記念植樹(蕪村俳句に詠まれた植樹)
       ・蕪村生誕記念「俳句大会」(兜カ學の森、大阪市立大学と共同運営)
       ・蕪村に宛てた絵手紙展(同絵手紙を募集・展示)
       ・蕪村顕彰ライブコンサート開催(市民楽団、合唱団参加)
       ・蕪村イメージキャラクター・キャッチコピーの募集(諸外国からも)
       ・蕪村公園・毛馬閘門・生誕地に関わる「まちづくり」研究(市大と)
       ・「蕪村絵画」の展示会(京都博物館→大阪市博物館)

NPO法人近畿フォーラム21主催の蕪村生誕300年記念事業委員会では、特に重要な事業として、俳句を通して諸外国と国際文化交流を図り、大阪文化の振興と集客行うことです。

どうか欧州諸国の大学・愛好会等方々にこの趣旨にご賛同してご参加頂き、「俳句」を通して日本との文化交流を進めたいと考えております。日本の伝統「俳句」を介して世界と“こころ”の友好関係を結んでいきたいと存じますので、さしあたり第7期「蕪村顕彰全国俳句大会の表彰式」に向けて、8月20までに沢山の「俳句作品のご応募」をお願い致すと共に、どうぞこの活動に「ご支援」賜ります様よろしくお願い致します。
以上

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posted by 21キンキ at 06:54| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆第7期7月の「句会講座」始まる

蕪村顕彰俳句大学   事務局


「蕪村顕彰俳句大学」第7期の7月最初の「句会講座」が、7月8日(月)に朝妻力講師によって開講しました。

この日は日中が35度の猛暑日で、受講生の皆さんは汗だくだくで、「講座」に参加されました。「句会講座」が終わり、帰宅は大丈夫だったでしょうか。

今回の朝妻句会講座は、まず朝妻講師の「講演」から始まりました。同講演は、4月8日講座から毎月連続して行われているもので、今回7月講演の題材「芭蕉以後の江戸の俳諧」は、近代俳句に到るまでの「経過」を学ぶ上で、貴重な内容でした。

ところで、朝妻講師から、上記7月「講演」だけでなく、最初の4月のから連続「講演」の際に配布された「資料」を、下記の欄に総て掲載させて頂きました。次回8月「講演の資料」も添付されておりますので、是非ご精読下さい。

「講演資料」は、ここからご覧ください。→ http://www.buson-kensho-u.com/

このあと、本番の「句会」に移り、「木槿」、「梅雨深し」、「自由」を兼題で出句された受講生作品を、受講生がお互いに選句し合ったのに続いて、朝妻講師による「選句と寸評」が、時間をかけて1句作品毎に詳細に行われました。

次回の「朝妻句会講座」は、8月5日開講です。

7月の2回目講座は、大橋晄講師によって7月12日(金)13.00開講。3回目講座は山尾玉藻講師によって7月24日(金)13.00から開講致します。

なお、9月22日開催の「蕪村顕彰全国俳句大会」の応募締切りが、7月31日(水)ですので、「東京の文學の森」までご応募下さるようお願い致します。
posted by 21キンキ at 06:46| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月29日

◆第7期6月「句会」が終わりました

近畿フォーラム21主催
                    蕪村顕彰俳句大学  事務局


第7期6月「句会講座」を締め括る山尾玉藻講師の「講座」が、6月26日に開かれました。この日の大阪は、梅雨に入ってからの最高の豪雨に見舞われ、開講できるかどうか懸念されましたが、大勢の受講生が参加され、熱意の籠った「句会講座」となりました。

同講座は、まず恒例に則って受講生出句作品を、受講生が3句選句し、発表し合う行事から行われました。

続いて、山尾講師による「入選、佳作、秀作」の発表が行われ、このあと、出句された1句づつに対して、丁寧且つ詳細な「寸評」が行われました。講師による作品の手直し等に感動する雰囲気が盛り上がりました。

そこで、山尾講師により「6月の秀句」に選句された作品と寸評を、講師から寄稿して頂きましたので、下記に掲載させて頂きます。 

★「秀句」
・<夏の月猫は尻尾をしまひけり>    助口もも

夜風のよく通る縁側で寝そべっていた猫が眠くなったのであろうか、それまで伸ばしていた尻尾を体の中に丸め込んだのだ。猫が尻尾の力を抜き丸めるのは安心し切っている証拠である。「しまひけり」の的確の表現を得て、猫の様子が鮮明に浮かび上がる。涼しげな月が浮かび、昼間の暑さをふと忘れさせるような夜涼の一景。

・<夫の背に膏薬にほふ夏の月>     奥田順子
 
ご主人の背中に膏薬を貼ってあげたのは作者であろうか、ご主人の背中から膏薬の匂いがふっとしたのだろう。少しは具合が良くなったのかな、と涼やかな月を仰ぎながらご主人を気遣う作者である。

・<でで虫の角ゆふづつをうかがへる>  山田美恵子
 
「ゆふづつ」は太白星と書き、宵の明星、金星のことである。夕方、蝸牛が二本の触角を上向きに伸ばしたり縮めたりするのを目にした作者には、まるで蝸牛が触角で西空に金星が現れたかどうか探っているように思えたのだ。ちっぽけな蝸牛が悠久の宇宙と交信をしているかのようで、蝸牛を詠んでちょっとしたロマンがある。

・<千枚田を背負うてをりし蝸牛>    東 和子
 
作者の眼の前を蝸牛がゆっくりと這っており、その向うを千枚田が空へ空へと広がっているという、奥行きのある景である。蝸牛にとって千枚田は全く知る所ではないのだが、作者には小さな蝸牛が千枚田を背負っているように思えたのだ。それを思い切った断定的擬人法で述べ、鮮やかで且つ微笑ましい一景を生んでいる。
(山尾玉藻講師評)

流石、「秀句」に接し「寸評」を拝読しますと、秀句俳句の素晴らしさが胸に募ってきます。

なお・山尾7月「句会講座」の兼題ですが、「夏木立」「朝凪、夕凪」、それに「蕪村に関する句」となっています。

これから第7期7月句会講座が始まります。下記の日程で開講致します。
◆朝妻講師の講座は、7月8日(月)
◆大橋講師の講座は、7月12日(金)
◆山尾講師の講座は、7月24日(水)
以上です。

ところで、初開催の「蕪村顕彰全国大会」が、3か月後の9月22日に行われます。どうか既に皆様にお配りしております「投句応募要綱」をご拝読頂き、締め切り日の7月31日までに、東京の文學の森社に「作品のご応募」をして頂きます様お願い致します。     
以上
posted by 21キンキ at 07:04| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

◆「蕪村生誕300年祭」へご協力を


                      NPO法人近畿フォーラム21主催
                      蕪村生誕300年記念事業委員会 委員長
                       大阪市立大学大学院文学研究科 博士(文学)
                                   村田 正博教授


来る2016年、与謝蕪村が摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬)に生まれて三百年の記念するべき年を迎えます。蕪村が我々にのこした俳句は、ことばの精華、論理と感性とがみごとに調和し結晶した、世界に誇ることができる人類の大きな遺産となっています。
 
このことに思いをいたし、NPO法人近畿フォーラム21主催で「蕪村生誕300年記念事業委員会」を設立しました。

多くの市民に俳句に対する理解を深め、日本国内はもとより全世界に俳句を中心とする相互理解と連携を拡げるべく、まずは大阪府・大阪市・独立行政法人国際交流基金・大阪市教育委員会・学校法人追手門学院・日本書芸院・大阪文化団体連合会・大阪俳人クラブの後援のもとに、講座「蕪村顕彰俳句大学」の開講、「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めております

さらに俳句つくりの指導に力を尽くし、その成果に・「大阪府知事賞」・「大阪市長賞」・「国際交流基金理事長賞」・「大阪市教育会委員会賞」・「蕪村顕彰俳句大学学長賞」等を授与。「入賞句プレート碑」を蕪村公園内に設置しております。

ところで今後、「蕪村生誕300年」を迎える2016年を目指して、下記事業の実現を期しております。

@ 俳句の理解、俳句の制作を通して、大阪と世界をつなぐ一大句会を開催すること。
A 蕪村、さらには俳句の、ITによる情報基地を開設すること。

B 大阪市における"北"の新しい中心として毛馬「蕪村公園」を位置づけ、大阪の文化や経済の発展に寄与しうる ようまちづくりを進めること。
(この事業は、大阪市立大学 大場茂明教授を特別顧問として始動しております。)
C高齢者の知識・経験を活かして俳句文化の高揚を図ると共に、参加する同世代間の連携や支え合うシステムづくりを推進しながら、高齢生甲斐の大切さを学び合うこと。

以上、経済の街 大阪を、世界に発信する平和と文化のまちとして成熟させること、大阪経済に貢献してきた高齢者を改めて評価し、これからの俳句ボランティア活動を盛んにする。
そうした具体的な実現を蕪村ゆかりの毛馬の地から図ってゆきたいというのが、私どもの素志であります。

ところで大変慶事なことですが、25年6月17日に月刊俳句誌「俳句界」の出版社・梶u文學の森」と共同事業を行う契約を結ぶことが出来ました。

このため、同社から後援を頂くと共に、毎年度2回行っている「入賞句表彰式」の内、前期表彰式を「蕪村顕彰全国大会」の名称にして、25年9月22日(日)開催の第7期表彰式から開催することになりました。「同全国大会」には、全国の俳句愛好家から「作品応募」を行い、「入賞句」には上記掲載の各賞と共に「文學の森賞」も加え、授与いたすことにしております。

この慶事を「蕪村生誕300年祭」とも連携させ大いに進めて行きたいと考えて居ります。

どうか、この「お祭りの事業」に対して地元の皆様を始め、ご関心の深い方々に惜しみなきお心寄せとお力添えをたまわりますよう、こころよりお願い申し上げる次第です。

posted by 21キンキ at 11:02| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月23日

◆「蕪村生誕300年祭」へご協力のお願い

                    NPO法人近畿フォーラム21主催
                    蕪村生誕三百年記念事業委員会 委員長
                     大阪市立大学大学院文学研究科 博士(文学)
                              村田 正博教授

来る2016年、与謝蕪村が摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬)に生まれて三百年の記念するべき年を迎えます。蕪村が我々にのこした俳句は、ことばの精華、論理と感性とがみごとに調和し結晶した、世界に誇ることができる人類の大きな遺産となっています。
 
このことに思いをいたし、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村生誕300年記念事業委員会」を設立しました。

多くの市民に俳句に対する理解を深め、日本国内はもとより全世界に俳句を中心とする相互理解と連携を拡げるべく、まずは大阪府・大阪市・独立行政法人国際交流基金・大阪市教育委員会・学校法人追手門学院・日本書芸院・大阪文化団体連合会・大阪俳人クラブの後援のもとに、講座「蕪村顕彰俳句大学」の開講、「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めております

さらに俳句つくりの指導に力を尽くし、その成果に・「大阪府知事賞」・「大阪市長賞」・「国際交流基金理事長賞」・「大阪市教育会委員会賞」・「蕪村顕彰俳句大学学長賞」等を授与。「入賞句プレート碑」を蕪村公園内に設置しております。

 ところで今後、「蕪村生誕300年」を迎える2016年を目指して、下記事業の実現を期しております。

@ 俳句の理解、俳句の制作を通して、大阪と世界をつなぐ一大句会を開催すること。
A 蕪村、さらには俳句の、ITによる情報基地を開設すること。
B 大阪市における"北"の新しい中心として毛馬「蕪村公園」を位置づけ、大阪の文化や経済の発展に寄与しうるようまちづくりを進めること。
(この事業は、大阪市立大学 大場茂明教授を特別顧問として始動しております。)
C高齢者の知識・経験を活かして俳句文化の高揚を図ると共に、参加する同世代間の連携や支え合うシステムづくりを推進しながら、高齢生甲斐の大切さを学び合うこと。

以上、経済の街 大阪を、世界に発信する平和と文化のまちとして成熟させること、大阪経済に貢献してきた高齢者を改めて評価し、これからの俳句ボランティア活動を盛んにする。
そうした具体的な実現を蕪村ゆかりの毛馬の地から図ってゆきたいというのが、私どもの素志であります。

ところで大変慶事なことですが、25年6月17日に月刊俳句誌「俳句界」の出版社・梶u文學の森」と共同事業を行う契約を結ぶことが出来ました。このため、同社の後援を頂くと共に、毎年度2回行っている「入賞句表彰式」の内、前期表彰式を「蕪村顕彰全国大会」の名称にして、25年9月22日(日)開催の第7期表彰式から開催することになりました。

「同全国大会」には、全国の俳句愛好家から「作品応募」を行い、「入賞句」には上記掲載の各賞と共に「文學の森賞」も加え、授与いたすことになりました。

この慶事を「蕪村生誕300年祭」とも連携させ主要共同事業として進めて行きたいと考えて居ります。

どうか、この企画に対して地元の皆様を始め、ご関心の深い方々に惜しみなきお心寄せとお力添えをたまわりますよう、こころよりお願い申し上げる次第で御座います。

posted by 21キンキ at 11:38| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

◆9月の表彰式は「蕪村顕彰全国大会」

NPO法人近畿フォーラム21

蕪村顕彰俳句大学  事務局

NPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、6月17日に「月刊:俳句会」を発刊している株式会社・文學の森と「共同運営事業契約」を結ぶことが出来ました。


この共同事業の目的は、「蕪村顕彰俳句大学」と「文學の森」が、俳人与謝蕪村を顕彰し伝統俳句文化の振興に資するため、蕪村顕彰俳句大学が主催する俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」に「文學の森」が協賛し、さらに国内外との俳句交流に貢献を進めるというものです。


同「契約」は6月17日に、文學の森が「月刊俳句会創刊10周年記念祝典」を大阪市内で行われた際、蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長と文學の森の姜h東代表取締役が面談し、上記目的の共同事業推進に正式に合意した上で、双方が署名押印して、無事終了しました。


同「契約」に基づき、初回の「蕪村顕彰全国大会」は、今年第7期前期9月「表彰式」から開催することになりました。このため文學の森には、「蕪村顕彰全国大会」に向けて投句募集をして頂き、入賞句に対して大阪府知事賞・市長賞・学長賞、文學の森賞を授与する「画期的な共同事業」が実現したのです。

(なお、後期来年3月の「表彰式」は、蕪村顕彰大学の単独開催です)。

投句締切は、7月31日(水)で、当句先は:〒169−0075 東京都新宿区高田馬場2−1−1−8F:株式会社 文學の森「蕪村顕彰全国大会」係です。
問い合わせは、同上(TEL:03−5292−9188 FAX:03−5292−9199)。

応募は、2句1組で、応募料は1組につき1000円(書留または郵便小為替)。

ところで、この共同事業により、事実上関西が中心だった「与謝蕪村生誕地の大阪毛馬名と蕪村の俳句文化」が全国に広められることになり、われわれ蕪村顕彰俳句大学が目指していた後世へ託して行く「俳句文化の夢」が実を結び、素晴らしい事業推進に繋がって行くものと期待を膨らませております。


ところで、3年後の2016年に迫って来た「蕪村生誕300年祭」を順次進めて行く計画を、大阪市大文学部の村田正博教授を「蕪村生誕300年記念事業委員会」の委員長に就任して頂き、市大の協力を求めて進めております。

この「蕪村生誕300年祭」を盛り上げるためにも、今回「共同事業」を契約した文學の森に更にお願いし、蕪村生誕300年祭の機運を高めて参りたいと考えて居ります。

同時に「世界最短の詩」俳句の国際交流に貢献し、世界俳句愛好家の大阪毛馬への集客にも力を注いでいきたい決意です。

この度、文學の森と「蕪村顕彰全国俳句大会」開催が出来るようになったことは、平成20年に蕪村顕彰俳句大学の句会講座を開講して以来の、大きな進歩になりました。共同事業にご協力頂いたことに深謝しております。

つきましては、文學の森に対しまして、これを機に蕪村俳句の高揚と生誕地・大阪毛馬の名を国内外に広めて行くことに、ご協力を賜りたいと、改めてお願い申し上げる次第で御座います。

<なお、第7期蕪村顕彰全国俳句大会へ全国からの「応募用紙」は、文學の森HPよりダウンロードして頂き、全国の俳句愛好家の方々に「投句」をして頂きますようお願い致します。当Webでも、出来るだけ早く「応募用紙」を掲載いたします>
                           以上




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2013年06月15日

第7期6月「大橋句会講座」が開講

蕪村顕彰俳句大学   事務局


大橋晄講師による7期3回目の「句会講座」が、6月14日午後1時から追手門学院大阪城スクエアで開講しました。真夏日に見舞われた当日には、汗だくだくで受講生が来講されました。

「句会講座」は、まず「麦一切」、「緑蔭」を兼題に出句された受講生の作品をお互いに選句することから始まりました。これに続いて大橋晄講師による「佳作。入選、特選」の発表と、1句毎の綿密な「選評」が行われました。

ところで、大橋晄講師は第7期の初回講座から、上記の「俳句を学ぶ句会」と共に、「蕪村を知り、蕪村の俳句を学ぶ。蕪村の人生、人となりを買い垣間見、蕪村の様々な俳句を味合う」テーマで「特別講演」が行われています。

今回の講演の題名は、「若き日の蕪村」で、「国文学解釈と鑑賞」所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)を引用しながら、「蕪村の人生」などを講演されました。

その説明の中で、非常に興味を曳いたのは、引用文書からの一部に、山下一海氏(九州大学・文學博士)の記述の内容でした。下記に少し掲載してみます。

<蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、ととまっていたくないところであったかも知れない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。

しかしそれだけに、故郷の思いは、反って深く、心の底に沈殿した。そして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。

しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。>

ところで、蕪村の心の奥底に沈殿しているのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びついていることが、この「講演」で改めて浮かび上がって来ました。

蕪村に関して関心の的になっている「蕪村の悲痛な心境」が、この「講演」で勉強させられました。

さて、蕪村顕彰俳句大学は、これもNPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村生誕300年記念事業委員会(委員長:村田正博大阪市大文学部教授)と協力して、3年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を行います。

この「記念祭の日」に、一度も立ち寄らなかった生誕地大阪毛馬町に何としてでも、帰って来てくれることを、蕪村に願いたいのです。

どうか、「句会講座」と共に、「蕪村生誕300年祭」開催に皆様のお力添えを賜ります様、心からお願い致します。 以上

posted by 21キンキ at 12:36| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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