2015年09月24日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

NPO法人近畿フォーラム21
       毛馬 一三




一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれた。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたち40人を含むおよそ200人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせていた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは、小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな戸惑いだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会を知り、一茶の生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは、蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あったことだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者が主宰する「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施したい方針で、今、諸計画を準備している。間もなく具体化する。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、来年の適切な時に開催し、大阪の俳句文化振興に貢献し、後世に伝承したいと考えている。(了)

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2015年09月14日

◆蕪村顕彰全国俳句大会 終わる

〜第11期表彰式  盛会裡に無事終了〜

              
NPO法人近畿フォーラム21主宰
                         蕪村顕彰俳句大學



 9月13日(日)午後1時から大阪市立淀川小学校で開催しました「蕪村顕彰全国俳句大会第11期表彰式」は盛会裡に無事終了しました。

 全国誌「俳句界」発刊の兜カ學の森と共同して、全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大學運営の「句会講座」の受講生の応募作品から専門家に選考して頂いた「一般の部」の優秀句に、「大阪府知事賞、大阪市長賞、公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞、当学長賞、兜カ學の森賞」を授与致しました。

 また、大阪市立、私立の小中高校から応募頂いた「児童生徒の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、当学長賞、それに今期から新規に設けた淀川神社賞」を授与しました。

 さらに、諸外国から応募された俳句作品の「国際俳句蕪村賞の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市長賞、独立行政法人国際交流基金理事長賞」を授与致しました。

 このほか、上記3部に「佳作賞」を授与し、蕪村顕彰俳句大學の3「句会講座」の講師推薦賞も授与しました。

 式典が終了後、蕪村生誕地近郊の「蕪村公園」に、表彰された「優秀句の記念碑」を建立し除幕式をしました。受賞した児童生徒・ご家族、一般の部の受賞者が集まり、大いに盛り上がりました。

 そこで、「優秀句一覧表」を下記に掲載します。どうか優れた全国俳句大会の実績を拝読頂き度存じます。

 江戸時代の俳人・与謝蕪村生誕300年の年が、来年平成28年に迎えますので、今期全国俳句大会第11期表彰式は、その「お祭り」の前哨となりました。来年与謝蕪村生誕300年記念行事は、皆様のお力を頂いて、おおいに盛り上げようではありませんか。心からお願い申し上げます。

<◆一般の部>

大阪府知事賞
    沢蟹は水の色して生れけり     兵庫県  前田 忍様

大阪市長賞
    白南風や通し土間よりすぐに海   千葉県  原 瞳子様

公益社団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞
    閉めてあるはうが明るし春障子  大阪府  藤村澄子様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    魚すべて黒潮のもの船料理  大阪府  藤村澄子様

(株)文學の森賞
    なには津の日暮れ明るき祭鱧  大阪府  間谷雅代様

佳作賞
    校長を勤め上げたる白絣     埼玉県   荒川清司様
    戸隠の何処歩きても遠郭公   大阪府   猪田初美様    
    月涼し桶に匂へる高野槙     兵庫県   上原悦子様
    風の繰る机上の一書五月来る    大阪府   高野卓也様
    ひかり吸ふやうに蓮酒飲みにけり 大阪府  武田和子様
    地球儀の塵拭く海の日なりけり  大阪府   竹森静雄様
    蕪村句碑驚かせたる大花火    大阪府 田中靖子様
    蕪村句碑までの長堤小鳥来る    大阪府 谷口多満様
    青蘆のさやめく淀の暮色かな     奈良県   中川晴美様
    蔵のある町を飛び交ふつばくらめ  大阪府   西村妙子様
    墓ひとつ残す故郷盆の月     滋賀県   前川菅子様
    月山の花野に埋もる遭難碑     兵庫県   本村幸子様
    マンションに水母を飼へる漢かな   大阪府   森田幸夫様
    鰡飛んで旧淀川をきらめかす    大阪府   山田夏子様
    遠足の磯の香の子を集めをり    兵庫県   山田美恵子様
    闇濡れて来て蛍の飛び始む     大阪府   吉田 喬様
    時の日や流るるものに水と砂    大阪府   吉田 喬様
    一人来て一人の音の田植かな    大阪府   吉田万喜子様
    潮入に下る砂利舟蘆茂る     大阪府   吉村幸子様
    尻ぬれてよりぞんぶんに磯遊    兵庫県   蘭定かず子様

<◆一般の部 講師推選賞>

大橋晄講師推選賞
    谷水を引きて山家の花菖蒲     嶋崎 豊子
    短夜の沖静かなる波の音      北村恵美子
    土筆摘み島へ別れの一家かな     中村 公代

山尾玉藻講師推選賞
    見覚えや柩の上の夏帽子      大山 文子
    藻の咲いて水神へ櫂使ひけり    蘭定かず子
    雲の峰軒の卵塊濡れゐたる     小林 成子

柴田多鶴子講師推選賞
    更衣ひととき妣の香の中に   伊福悠紀
    ほうたるを呼ぶ児の減りて闇の   田宮恭子
    原種みな素朴なかたち額の花   岩出くに男

<◆児童・生徒の部>

大阪府知事賞
    おひさまがぎらぎらしたらかき氷 大阪市立大東小学校五年 坪田 乃々様

大阪市教育委員会委員長賞
    表面に虹を浮かべてしゃぼん玉  大阪市立南高等学校一年  川元 理代様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    一人聞く祭囃子の笛の音     大阪市立南高等学校一年  井上 和音様

淀川神社賞
    月見草風にふかれてゆらゆらと  大阪市立淀川小学校六年年 宮本 結菜様

佳作賞
    ひがささしちょっとおとなきぶんだよ大阪市立大東小学校二年    天野  凛
    ふゆのそとナイフのようにかぜがふく  大阪市立大東小学校二年    田中 心樹
    白い息城の石がき見て走る       追手門学院小学校三年      田邊 誉人
    雨上がりしずくと共に虹が出る     大阪市立淀川小学校六年     小路 愛心
    夏の星夜空に光をときはなつ      大阪市立淀川小学校六年     新居 美咲
    帰り道秋夕焼けが照らす道       大阪市立淀川小学校六年     軽澤 礼奈
    やわらかい落ち葉の道を散歩する    大阪市立大東小学校六年     森下 心葉
    ヒマワリよ私の背をこさないで     追手門学院小学校六年      内田 佳歩
    入学式背負いなれないランドセル    追手門学院小学校六年      内海 隆飛
    夕焼雲その間から光さす        大阪市立咲くやこの花中学校二年 稲葉 遥
    夕焼に足をゆるめる君とぼく      大阪市立咲くやこの花中学校二年 小倉茉菜香
    月涼し足音止んだグラウンド      大阪市立咲くやこの花中学校二年 山口わたる
    赤とんぼだいだい色の空に飛ぶ     大阪市立南高等学校一年    酒本 愛優
    蝉時雨日差しと共に降りそそぐ     大阪市立南高等学校一年    福盛 海斗
    原色に溶けきっていくかき氷     大阪市立南高等学校一年    川元 理代
    少しでかい制服を着て新入生     大阪市立南高等学校一年    小林 瑞季
    真っ青に輝く空だきたぞ夏       大阪市立南高等学校一年    西村 明花
    Imissyouあの日作った雪だるま 大阪市立南高等学校一年    藤田美香麗
    蒲公英よ叶うと言ってこの恋が      大阪市立南高等学校二年    大西 七菜
    つばめの子お前はどこへ飛んでいく   大阪市立南高等学校二年    爲 麻土香

<◆国際俳句蕪村賞>

大阪府知事賞
    夕焼けや故郷へ架かる鉄道橋     台湾    蔡 佩真様

大阪市長賞
    夕焼けや子供を背負う父の影    台湾    周 姿均様

独立行政法人国際交流基金理事長賞
    天窓を開けたまま寝る夏の月     台湾    郭 芳慈様

佳作賞
    コンビニの暴走族や夏の月      台湾  宋 佳駿
    夏の月ダイダラボッチ動き出す    台湾  楊 子瑩



posted by 21キンキ at 10:10| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

◆与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?

NPO近畿フォーラム21
毛馬 一三

 
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)だと、江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。

ところがそうではないことが分かり、驚かされた。

というのは、私が代表のNPO近畿フォーラム21主催俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で初めて知ったのだ。

教授講演によると、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったとの説明だった。

藤田教授はさらに、次のように語った。

<<蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。

毛馬村の名前を出したのは、唯一この「春風馬堤曲」だけである。それでも自分の生誕地がこの毛馬村だったとは、弟子や俳人仲間にも殆ど触れていない。

ところが、蕪村が自ら生誕地が大阪毛馬村だと初めて記したのは、蕪村が主宰する「夜半楽」の弟子に、この「春風馬堤曲」の冊子を贈呈した手紙の冒頭添え書に書いていたことが後々に分かったのだ。

冊子を贈呈した大阪在住弟子とは、柳女・賀端(がつい)で、添え書きの中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。

(春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」)。


この添え書きは、一応江戸時代から「物証」の形を取ってはいたが、毛馬村が生誕地との確実説とはなっては居なかった。

何故なら、江戸時代の発刊諸本は複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」弟子に宛てたこの「添え書き」ですら、複製か、それとも蕪村直筆なのか、多々異論が渦巻き、江戸時代以降長い間、確定していなかったのだ。

従って蕪村生誕地は、関西各地を含めた「複数説」が広がっていたという。

ところが前記の如く、終戦直後、奈良県で偶然見つかった同「書き添え書簡」が、「蕪村直筆」だと蕪村学者によって公式に認定された。

これよって、やっと「蕪村生誕地が毛馬村」であると確定したのである。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、毛馬が生誕地であることを補完する形を示すことになり、遂に毛馬村生誕地が不動のものになった訳だ。>>

この経過を考えると、弟子宛の蕪村生誕地を記述した1通の「蕪村直筆添え書き書簡」の学者公認の意味は大きい。

これがなかったら、蕪村が俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。

蕪村が大阪毛馬生誕の俳人と定説になってから、僅か70年ほどしかならない。この影響があって、芭蕉や一茶とは異なり、大阪俳人として蕪村の顕彰が疎かにされてきたことは事実だ。

これからは2年後の蕪村生誕300年に向けて、私たちのNPO近畿フォーラム21で、生誕300年記念行事実行を進めることにしている。

目下検討中の”記念行事” は、   

@「国際俳句蕪村賞」を諸外国応募者に授与(大阪知事賞・大阪市長賞・国際交流基金賞等)
A シンポジウム 28年5月1日開催(村田正博市大教示・俳句学者・・俳句主宰者が参加)
B 屋形船の「句会」(蕪村生誕地近郊の1級河川「淀川・大川」で)
C 蕪村歩こう会:(大阪市立大学文学部と共同事業)
D 蕪村公園内か、何処かに「蕪村銅像建立」
E 蕪村公園へ植樹(蕪村俳句に詠まれた樹木)
F 蕪村生誕300年記念「俳句大会」(全国・海外から作品募集)
G 蕪村に宛てた絵手紙展(蕪村俳句からの絵手紙を募集・展示会)
H 蕪村カルタつくり(蕪村俳句から作ったカルタを募集・優秀作品を展示会)
I「蕪村紙芝居」と「蕪村顕彰ライブコンサート」同時開催
J 蕪村公園・毛馬閘門・毛馬胡瓜で生誕地都島区を広める「まちづくり」
K 2016年秋「生誕300年祭」を開催。諸外国俳句愛好家を招請

以上の事業を、推薦団体、協賛団体・協賛者のご協力を得て、生誕300年を迎える年迄に順次行いながら、2016年の生誕300年秋に盛大な「生誕記念祭」を行いたいと考えている。

既に、2年前から兜カ學の森と共同して、「蕪村顕彰全国俳句大会」を行うと共に、上記の「蕪村生誕記念祭」も共同で盛大に開催することを合意している。

大坂生誕与謝蕪村生誕記念事業をすすめることによって、後世継承と全国・諸外国に「世界最短の詩・俳句」文化振興を進めていきたいのが、私の願いである。
(了)
        (修正・加筆して再掲)
                         
posted by 21キンキ at 12:44| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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