2015年08月26日

蕪村生誕地はいま淀川の河底

NPO近畿フォーラム21
      毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村生家は、一体何処に在ったのか。これは正確には知られておりません。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わ航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。(→リンク先の写真参照)。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。ここから分岐した河川は「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」は、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

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2015年08月02日

感動した蕪村実物「絵画と俳句」閲覧

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬 一三



 江戸時代の俳人与謝蕪村が、来年生誕300年の「年」を迎えるため、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21では、全国初の「生誕300年記念祭」の諸行事を全国に先駆けて、蕪村生誕地大阪毛馬で実施する計画を進めている。

 ところが、蕪村を後世に継承して行く考えに同意してくれている大阪市会議員(前議会副議長)の杉田忠裕氏が、「蕪村と若冲の生誕三百年展覧会が、今
滋賀県甲賀市信楽町の博物館「miho museum」で開かれているので行きましょうか」と云って誘われた。

 これには驚きだった。我々と同趣旨の「生誕300年記念展覧会」と同じ表題を付けて、滋賀県の博物館で、何と半年も早く開催されているということ自体に驚嘆だったのだ。瞬間的に、これを見逃す訳にはいけないと思った。杉田忠裕氏にご案内をお願いした。

 7月31日午後1時、杉田忠裕氏の運転する自家用車に、筆者と同じNPO理事渡邊征一郎氏を同乗させて貰い、大阪から新名神高速道路を疾走して、1時間40分掛かって信楽インターチェンジを下車。

あと、囲まれた山や谷を遠望しながら、幾つもトンネルを抜ける道路を通って15分走り、信楽町博物館の駐車場についた。そこからまたバスに乗り換えて10分ほど行き、ようやく本番の博物館「miho museum」に着いた。

同博物館は、1997年11月世界的な建築家・イオペイシの設計によるもの。80%を地中に埋設したユニークな設計。敷地面積:30万坪、美術館棟(床面積);17,400u。観るだけでも、博物館に入館してみても巨大建物とわかった。

これから本題。

現場で杉田氏の知人2人と合流、5人で閲覧を始めた。この日は平日の金曜なので 閲覧者は少ないだろうと思ったが、なんと大勢が並んで見学している。

「生誕三百年の蕪村と若冲」は、尾形光琳が亡くなった後の同い年同士の天才絵師だったのだ。蕪村は図画と共に俳句も吟行したが、若冲は画家として専念した人物。

 博物館での2人の絵画等の陳列は、223点陳列されていた。蕪村に夢中な我々5人は、「蕪村絵画と俳句添付絵画」を凝視してまわった。現在、展覧中の蕪村筆閲覧図は、80点ある。

この中には、閲覧予定も含め
・「花守の」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「学問は」与謝蕪村筆:俳句付き(8月4日〜)
 ・「雪月花」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「盆踊図」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「又平に」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「奥の細道図巻」与謝蕪村筆
 ・「山水図屏風」 与謝蕪村筆
 ・「夜色楼台図」 与謝蕪村筆 (国宝・8月18日〜)
 ・「蜀桟道図」  与謝蕪村筆
  などがある。
 
 「蕪村図画は、各種の書籍で、同上の「写真」は何度も見てきたが、目の前に与謝蕪村筆の実物の絵と筆文字を見ることが出来た上、「蕪村、謝寅、東成蕪村」の自筆名前を見つめた時、不覚にも感動の涙が溢れ出て、止まらなかった。蕪村の生きざまと郷愁の想いを多少知っている筆者にとって、実物画のインパクトは強烈だったのだ

 この閲覧の最中、博物館の梨純次参事から、去年新しく見つかった「蕪村絵画」3図があり、世間に余り知られていない3図だとして閲覧を勧められた。

維摩(ゆいま)、龍(りゅう)、虎図(とらず)の与謝蕪村筆3図であった。そういえば、維摩も龍、虎図は、確かに書籍の写真でも見たことはない。これも今回閲覧の感動の一つだった。

閲覧者は、我々の金曜閲覧日には900人もあったという。8月1日(土)には、1500人を超えたということだった。

「蕪村と若冲の生誕300年展覧会」は8月30日まで行われる。滋賀県信楽町の博物館は非常に遠いけど、筆者の涙を誘うような感動を招いてくれるのは確かだ。是非「蕪村俳句愛好家」の方は、博物館の閲覧をお勧めししたい。                              (了)
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