2015年07月26日

◆蕪村公園、知ってる?

◆蕪村公園、知ってる?
            NPO法人近畿フォーラム21

毛馬 一三 



与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句も、この記念碑に刻んである。

この他の顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所の橋の名だ「春風橋」で、蕪村直筆文字の「春風橋」が刻まれている。ところが、有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、この3件しかなかった。ここに「蕪村公園」が誕生したのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な農家(庄屋・問屋・宿屋)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失なった不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って俳諧に励む一方、南宋画家にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承文献が殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これ迄の長い間、大阪で「蕪村生誕祭」が開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることにも想い付かなかった主理由だった。

しかし、10年頃前から都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的に顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。筆者も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じて、大阪市が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備した。

同「蕪村公園」の整備には、当初、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てるほか、公園内に大きな広場、その周辺には蕪村の句の石碑や蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば大阪が蕪村生誕地であることが知れ渡り、蕪村への集客に繋がることによって、都島区名所に成る筈だと申し入れ続けた。しかし、蕪村公園のシンボルの「東屋」は、浮浪者の溜まり場となり、管理運営上難しいとの判断から、「同屋」の建設は見送られた。

序で乍ら、出来上がった同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点となっており、近くには国の重要文化財「毛馬閘門」がある。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」は、受講生の「入賞作品プレート碑」を既に10基(2015年春現在)建立。「蕪村句」に登場する樹木の記念植栽を支援しており、2016年には「蕪村生誕記念祭」を実施する。
是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村望郷の念」を察して頂きたい。(了)
posted by 21キンキ at 08:59| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月17日

◆「第28回 575で遊ぼう!」開講 

◆「第28回 575で遊ぼう!」開講 
         
NPO法人近畿フォーラム21  事務局



「第28回 アンジュ5・7・5で遊ぼう!」講座が7月16日に、15名の受講生が出席して
開講しました。

先ず最初に、石垣講師が、今回第28回のお題は「 夜店、ハンカチ」にしますと、発表されました。

つづいて、講座の恒例に従い石垣講師が、前27回の「お題 日傘、黴」について振り返る講演をされ、受講生出「優秀な5・7・5 2出句紹介」と「講師寸評」をされました。下記に掲載します。

@ 日傘さし二人で行ったカフェかな
<寸評> 夏の暑い日に、友達と二人でカフェへ行った。暑いのを我慢した後、良く冷えた飲み物を会話を楽しみながら飲むのは格別であるとの心情を上手に表現している。

A 餅にカビ生えても平気で食べる父
<寸評> 冷蔵庫の無かった時代、少し餅を置いておくと直ぐにカビが生えた。昔の人はカビを取って焼き、平気で食べていた。食べ物を大事にしていた時代の575である。

(2作品とも、季節を見事に表現され、講師寸評にあるように「作者の心情と、食べ物を大事にしていた時代」を詠まれた句ですね。      事務局 )

講座は、いよいよ今回のお題の挑戦にはいりました。

石垣講師が受講生の作品つくりの参考になる2例句を示されました。
@ ハンカチの二枚目使う午後となる
<解釈> 暑い日になると思いハンカチを二枚用意していたが、午後になり辛抱できず既に二枚目のハンカチを使ってしまった。

A 夜店へと赤き鼻緒の下駄履いて
<解釈> <カラコロと音を立てながら浴衣を来たこどもが親に手を引かれ夜店に向かっているよ。喜び勇んで夜店へ向おうとするこどもの心情を表している。>

この日の受講生のお題の5・7・5作品から、1作品が紹介され、講師寸評が発表されました。
  ・夜店にて子供楽しむ夏休み
  <寸評> <夜店にこどもを連れてきた親が、こどもの喜ぶ顔をみながら自分も楽しくなっている気持 ちを素直に表現した素晴らしい5・7・5作品である>

このあと石垣講師から「5・7・5作品つくり心構え」について、際立った論説が述べられました。
  <作者の気持ちを出す。正直に表現する。
  575は、多くの説明が省略されているので、読み手に取って受け取り方が違う。
  それぞれの光景を感じとって貰えるように。>ということでした。
  
その上で、大切な次回以降の進め方を語られました。
  <講座を始め1年が経過しました。
  より楽しめる新たな講座の進め方を考え、実現して行きたいです。>

  最後に講師から、次回のお題は「盆踊り、朝顔」とすると発表されました。

(受講生の皆さん!石垣講師は、俳誌「うまや」主宰の有名な俳人です。その石垣講師から、素晴らしい講座を受けられ。5・7・5つくりの心情と楽しさを熟知されながら、思いに添った優れた作品を沢山つくられました。講座は1年経ちました。皆さんのご努力と熱心さは、各界からも注目されています。どうか生甲斐に一端として、これからも頑張って頂きます様祈念致します。     事務局 )

以上
  
posted by 21キンキ at 19:34| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月16日

◆蕪村の父が死んだのは新型インフル

NPO法人 近畿フォーム21
石岡 荘十(原作)


(2015年07月16日)


<主宰者:畏友石岡荘十氏のタイトルは「新型インフルで死んだ法皇」であったが、偶然にも大阪俳人与謝蕪村の父親(庄屋主)が死んだのも、この新型インフルだったので、タイトルを変えて掲載させて頂いた。>

では、石岡氏寄稿の「新型インフルで死んだ法皇」本文に戻る。

インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と、首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。

南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。

「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1000年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため、死亡したと書かれている。

ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。

これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。

さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。

天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。

そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。

感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。

「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。

スペイン風邪については、明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。

つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。

スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。

「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10〜13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。

アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないので、ここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。

40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。

1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。

2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。

ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。

これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。

「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。

過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。

政治の威圧ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。
(2014年12月16日掲載)



posted by 21キンキ at 10:33| ネットメディア大阪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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