2015年05月24日

「蕪村生誕300年祭」ご支援を


   平成27年5月24日

NPO法人近畿フォーラム21主催 
   講座・蕪村顕彰俳句大學
        学長  川原俊明 (弁護士)
                           蕪村生誕300年記念行事実行委員会
                           委員長 村田正博(市大教授)
                          

NPO法人近畿フォーラム21は、大阪市が大阪市毛馬町に「蕪村公園」を造営したのを機に、大阪輩出の江戸時代三大俳人・与謝蕪村を顕彰すると共に、蕪村生誕地である大阪市毛馬町(江戸時代:摂津東成郡毛馬村)を広めるために、平成22年4月に講座「蕪村顕彰俳句大学」を設立、講座を開講致しました。

同講座では、大学教授や俳句結社講師による「蕪村俳句の歴史」「句会」講座を行い、第1期講座終了以来、既に11期までに5年が経過しました。

各期の後援と選考した最優秀作品の受賞に「大阪府知事賞・大阪市長賞・独立行政法人国際交流基金理事長賞・大阪市教育委員会委員長賞・講座学長賞」を授与する表彰式行っております。さらに8期からは新しく公益法人関西・大阪21世紀協会の後援と同協会理事長賞を授与致しました。

表彰式当日には、近郊の蕪村公園内に「最優秀句プレート碑」を設立していますが、今期までに既に10基揃っています。

講座は、受講生の間で大いに盛り上がると共に、兜カ學の森との共同で全国や諸外国からも沢山の作品応募が相次ぐなど、予期以上の反響に驚きと感激を覚えているところです。

 この感動を更に拡大しようと、新しい活動を始めることに致しました。

ご承知のように、松尾芭蕉、小林一茶の生誕祭行事は全国に熟知されていますが、蕪村生誕地が知られていないため、これまでに「生誕祭」は実施されておりません。

このため、蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを全国・海外に広め、同時に「蕪村公園・蕪村俳句」を高揚させるために、蕪村生誕300年を迎える2016年(平成28年)に「生誕記念祭」を開催することとし、ただ今諸準備を進めております。

事業を急ぎ充実させて大阪俳句文化振興と蕪村公園への集客を図るために、この際、地元都島区を始め、各界の方々のご参加と海外との交流も進めながら、「生誕祭」を創生して参りたいと考えております。

お蔭様で、蕪村が氏子として離郷するまで参拝した現存「淀川神社」と、蕪村生誕顕彰活動継続の「蕪村通り商店街」と300年祭を共同して様々な「お祭り」を進めていくことにしております。

どうか大阪文化振興と諸外国からの大阪「蕪村公園」への集客などのために貢献したい当NPO法人と、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の主旨にご賛同の上、俳句作品のご応募を含め、各種の「お祭り」の推進に諸ご賛同とお力添えをお願い申し上げる次第で御座います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。
                   NPO法人近畿フォーラム21
                      理事長   池尻 一寛
                   
蕪村生誕300年記念行事実行委員会 事務局
電話(FAX)06−6928−9773
posted by 21キンキ at 09:06| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月20日

◆与謝蕪村の生誕300年記念祭 開催

                        NPO法人近畿フォーラム21 事務局
 
与謝蕪村生誕日は不明だ。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村は、江戸の享保元年(1716)に生まれているが、肝腎の生誕日は不明だ。

しかも与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということも、江戸時代から「正確」に知れ渡っていなかった。

生誕地は、明治時代になって、蕪村俳句を広く世に評価し紹介した正岡子規でさえ、蕪村生誕地が大阪毛馬村だと、論述していない。

生誕地が「毛馬町」だと分かったのは、なんと終戦直後戦後になって、やっと「証明」されたのだ。しかし前記のように「生誕日」は、今になっても分からない。

与謝蕪村の生誕300年の年になる、来年2016年の年に記念祭行事に取り組もうと「蕪村生誕300年記念祭行事活動」を始めようとした際、「生誕日」がまだ不明なのには、戸惑わされた。「生誕日」に合わせて300年記念祭をやれないのだ。

しかし、終戦直後戦後とはいえ、生誕地が「毛馬町」だと「証明」されたことで、蕪村が大阪俳人であることが明らかになった。「生誕日」は不明ながらも、来年から初めて「生誕記念祭」を、生誕地大阪毛馬町でやれるのは、こんな歓喜なことはない。

こるから与謝蕪村生誕のことを追々。

先ず、生誕地が大阪毛馬町だと「証明」されたのは、なんと終戦直後だという事を教えて頂いたのは、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21「蕪村顕彰俳句大学講座」で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授だった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話は、次のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。

しかし、残念なことにその舞台となる毛馬の淀川馬堤近くが自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

だがその後、願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これを「物証」として、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かった筈だが、そうならなかった。これには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地の複数説」を逆に加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」される「書簡」が前記の如く、終戦直後偶然にも、奈良県で見つかったのだ。
これが歴史的実証となった。弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「蕪村直筆」が、「毛馬生誕地」と確定したものの、終戦直後の認定だから、本当に遅きに失したと言わざるを得ない。

これが「蕪村生誕地の複数説」を打消しし、「毛馬村を生誕地」とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

これにより、生誕地が毛馬村であり、生誕の年も2016年(平成28年)であることが重複して不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも、無かったことになるだろう。>

ところで、終戦後に生誕地が「大阪毛馬町と証明」が確定したが、今ですら地元大阪でも、「与謝蕪村が大阪俳人」であることを知らない市民が多い。

次世代を担う児童生徒の教科書に取り上げられていないことを考えると、文部科学省の無配慮が指摘され、全国の児童生徒が大阪毛馬の生誕地のことを知らないことは、これが主因だ。残念で仕方がない。

更にはまだ、蕪村生誕日が分かっていないことも、文科省の研究が進んでいないことだ。学者に呼びかけて、探究を進めてほしい。

筆者主宰の「蕪村顕彰俳句大学講座」では、2016年(平成28年)の蕪村生誕三百年に、生誕日は不明でも、この年に「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化振興と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」と尋ねた

答えは、「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上する。

恐らく奉公人だった母と、庄屋・問屋の父が亡くなってから、家人たちによる私生児への極めつけの「いじめ」に合い、そのために十七・八歳で家を出奔、江戸に下ることを考えざるを得なかったのだろう。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

最後にお願い。

どうか、蕪村生誕300年を迎える2016年・来年の春期から、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」開催を、まず大阪市立大学主導の「蕪村シンポジューム」開催を五月から始め、氏子蕪村が参拝した実績のある現「淀川神社」と、近郊の「蕪村通り商店街」と共同し、適切な時期を選んで「300年記念のお祭り」を進めることにしている。

是非共、皆様のご賛同とご支援を、改めてお願い申し上げます。(了)




posted by 21キンキ at 07:23| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三



与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶は、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれ、町内にあるJR黒姫駅から、地元の子供も含む200余人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていない。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられる。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。
◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。
<参考:ウィキペディア>

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合った精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。蕪村は、これが大阪毛馬村から抜け出し、江戸を目指したことに繋がっていく。

このことが、一茶の生涯を記述することによって、蕪村の共通の苦衷と繋がることが明らかになるだけに、上記のことを書き留めて置きたかった。

「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「蕪村生誕300年祭記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施することにしようと、今、諸計画の準備を進めている。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念諸行事を、来年の適切な時に開催したい。大阪の俳句文化振興と蕪村俳句後世継承に貢献したいと考えているからだ。
(了)

posted by 21キンキ at 07:21| 提言雑言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。