2015年02月13日

◆大阪行脚の蕪村 生誕地には帰らず

NPO法人近畿フォーラム21



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは、本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下った。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬村」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。母親は若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎを委ねられたものの、正当嫡子でないために庄屋経営責任をも果たせず、周囲や同業からの過酷ないじめに遭わされたこともあって、意を決し毛馬村を飛び出したようだ。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。

この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の「淀屋橋や源八橋」からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて吟行に回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を重点的に回っていたことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり「大阪」が活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

これを証ように、今の大阪市北区梅田茶屋町の商店街の広場に「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があり、顕彰されている。

ここでは地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」という「まち起こしイベント」を催している。つまりこの辺りは、蕪村が毛馬橋から上がって、散策したところだ。

しかし、正に近郊の蕪村生誕地の「毛馬町」に、前述の様に一歩も足を踏み入れていない。父母に対する「望郷」の念は強くあっても、幼少の苦節がそうさせたのだ。

さて、後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、蕪村俳句文化振興をしようという筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム主催「講座蕪村顕彰俳句大學」(学長 川原俊明弁護士)開講は、立ち上げてから、もう5年が経っ。

応募の優秀句には「知事、市長、教育委員会委員長、学長賞」、海外から応募の優秀句には「国際交流基金理事長賞」等の各賞を授与する「表彰式」を毎年2回行い、蕪村生誕地近郊の大阪市造営の「蕪村公園」に、「表彰式」のあと「優秀句記念プレート碑」を設置している。

この4月からは、第11期講座が始まり、来年の蕪村生誕300年記念を控えて、9月には兜カ學の森と共同して「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を行う。是非、文學の森刊「俳句界」を通じて、俳句作品のご応募を読者の方にお願いした。

そんな折、驚くべきことが分かった。

大阪俳人としての名を高めた与謝蕪村が、生誕地毛馬村で幼少の頃、父母と一緒に「氏子」として参詣を続けていた氏神神社が今、大阪市毛馬町にある「淀川神社」であることが分かったのである。

これにより、昨年の暮、当NPO法人近畿フォーラム21と、「淀川神社」が共同して蕪村俳句顕彰し、蕪村参詣経験の「淀川神社」の名を広める等の諸活動を行うことになった。

その手始めに今年のお正月から「淀川神社」で、俳句愛好者が自作の俳句を「蕪村絵巻」に書き込み、境内に吊るす祭事を始め、マスコミも取り上げてくれた。

これからは、この活動が「望郷の念」の強かった蕪村が、来年28年の「蕪村生誕300年記念年」を控えて、現代の人たちが蕪村の「望郷の念」を引き継ぎ補ってくれることを喜ぶことになると思い、地元と協力して積極的に進めていきたい(了)
posted by 21キンキ at 14:33| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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