2014年12月13日

◆お正月に「絵巻」のご奉納を

◆お正月に「絵巻」のご奉納を

蕪村顕彰俳句大学 事務局



 第10期の「句会講座は」、まず12月10日(水)から山尾玉藻講師によって、、兼題「歳晩・自由」を以て開講しました。
 つづいては12月12日 (金)に、大橋晄講師によって、兼題「鴨・時雨・自由」で「句会講座」が開講し、いずれも無事終わりました

 「12月句会講座」の締め括りは、12月15日(月)に石川多歌司講師による、兼題「事始め・冬芽・自由」で開講します。 大いに盛り上がる「句会講座」を期待致しております。

 ところで、開講した各講座は、受講生の互選と講師による選評および寸評が行われ、講師によって選考されて作品の「秀作」には、素晴らしいものが沢山ありました。

 これまで終了した山尾玉藻講座で「秀作」に選ばれた作品について、山尾玉藻講師から下記の「秀作寸評」を頂きましたので、感謝申し上げると共に、掲載させて頂きます。

<秀作寸評 山尾玉藻>

 餅筵はたき夕暮早めけり   山本耀子

 新年を迎えるための餅つきが滞りなく終わり、筵に丸め並べられていた餅も餅箱に収まった。ひと仕事を終えた安堵で餅筵の粉を払いながら、辺りが早や暮色に染まっているのに気付いた作者である。冬至が過ぎたとは言えまだまだ日は短い。筵を払う音が夕暮を早めたとする倒置的擬人法で日暮れの早さを際立てたところがなかなか巧みである。
  
 大寺の屋根昏れてゐし羽子板市   大山文子

 華やかな羽子板で埋め尽くされた仲見世に灯が点り始めると、華やさに煌びやかさが加わった目映いばかりの美しさである。そんな仲見世の通りから何気なく浅草寺に目を遣った作者は、寺の大屋根が既に真っ暗な闇に包まれているのに気付き少し驚いている。羽子板市の華美な賑わいと大寺の寂とした暗がりとが一つとなった世界、江戸の歳晩らしい景がここにある。

 置き薬の封切らぬまま年の暮  松井倫子

 家庭によっては今も富山から薬屋が定期的に来て置き薬を置いていくと聞く。年末、作者の家にもそろそろその薬屋がやって来る頃なのであろう。「封切らぬまま」の措辞に、家族の中に病や怪我をする者がなく、置き薬の世話にもならず、今年も何とか無事に過ごせたという、作者の安堵と感謝の思いが籠められている。>

 以上です。素晴らしい出来栄えですね。
 

ところで、後日詳しくWebでお伝えしますが、毛馬に生誕した蕪村が幼少の頃から、蕪村公園の前に在る「淀川神社」に、「参拝」していたことが分かりました。

 そこで「蕪村顕彰俳句大学」と「淀川神社」が共同し、「蕪村生誕300年記念行事」の一環とし、このほかにも諸行事を行うことを、この12月に合意しました。

 このため、27年の元日から「淀川神社」で、受講生や俳句愛好家が「俳句とお願い」を奉納する「絵巻」を発刊し、境内の「吊り下げ竿」に1年間下げることが決まったのです。

 蕪村が氏子として元日に参拝した「淀川神社」に、今の時代になって、俳句作品を奉納できること自体、画期的なことであり、これも「神様のお導き」だと思わざるを得ません。

 どうか、皆様もお正月の3か日に「淀川神社」ご参拝され、「絵巻」に「自信の俳句とお願いごと」自筆で書き込んでご奉納されますようお勧め致します。

 よろしくお願いいたします。


posted by 21キンキ at 10:26| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆氏神「淀川神社」と共同行事へ

NPO法人近畿フォーラム21主催
                     蕪村顕彰俳句大学 事務局
                     蕪村生誕300年記念行事委員会


画期的な事がまた、出来ました。蕪村生誕地近郊の氏神様「淀川神社」と、与謝蕪村顕彰の諸行事を、「共同」で進めることになったのです。

「淀川神社」は、大阪市毛馬町にある「蕪村公園」のすぐ南側、城北通り道路を渡って、すぐにあります。

どうして画期的なことなのか、これから追々。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、合祀を重ねながらもそのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

また、同じ旧東成郡の毛馬村には明治まで、同じ氏神様の「八幡神社」が在りました。つまり旧東成郡には、昔から2つの神社があったのです。

ここからが重要なこと。

江戸時代の俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な友渕村で生まれました。

生家は、父は毛馬の庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

この北国屋吉兵衛の一家が、正月などに参拝したのが、勿論家の近くにある上記の2つの神社であったことは間違いないでしょう。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家を出る苦衷から脱つしたい時の厄払いも、この2つの神社に参拝したことは想像に難くは在りません。

18歳の時、江戸に出奔する時も、「安全祈願」のためにこれら2「神社」に行ったでしょう。つまり蕪村(寅)と「神社」の関係は、当時の江戸時代の風習から考えても、当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところが、前述のもうひとつの「八幡神社」は、明治43年に政府の方針に従って「桜宮神社」と合祀して姿を消し、神社跡は当時から民間地となっています。

このため、蕪村生誕地近郊に現存する氏神様は、明治以来「淀川神社」のみとなっているのです。この由来を知る人が珠にあり、「淀川神社」を蕪村と繋ぐ唯一の神社だと広めたら如何と、宮司に囁きもあったようです。

ここで、話が急転し出しました。

2年前「淀川神社」宮司に就任された横路良さんが、その趣旨を生かしたいと決意され、地元淀川連合振興町会長の仲介で、蕪村顕彰と蕪村生誕300年祭行事を進めている私たちNPO法人に、ご意志の提案されたのです。

数回詳細協議を重ねた結果、蕪村顕彰の行事を「共同」して推進していくことを急遽合意しました。これが画期的なことなことでした。

合意したのは、大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を発信地として後世に継承することが相互の主意思であることで、一致したためでした。

更には、市内は勿論、全国からの俳句愛好者や観光客を蕪村生誕地毛馬町へ訪ねて貰う顧客誘致に貢献しようということの意思も一致したからです。素晴らしいことでした。

そこで手始めの合同行事として、幅6p縦24.5pの「淀川神社絵馬」を作製します。その絵馬表面に「蕪村の著名俳句と蕪村像」を載せます。

肝腎なことは、同絵馬の裏に、蕪村顕彰俳句大学受講生や一般俳句愛好家、公私立児童生徒等が、自作の「俳句と祈りごと」を手書きすることです。その「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになります。

この他の行事として、平成28年の「蕪村生誕300年祭」に向けて「神社のぼり」を作製し地元の毛馬町や友渕町に飾ります。また境内に「蕪村生誕祭の石碑」を建立することも考えています。

締め括りになりましたが、「淀川神社」内の催事部屋を使って、「句会講座」を開講することも、行事として地元の俳句愛好家の方にご協力頂くことも、すでに進めています。

蕪村自身が参拝したことのある氏神様「淀川神社」と、「蕪村生誕三百年祭」に向けて、こうした蕪村顕彰諸行事を、私たちNPO法人とが「共同」で押し進めて行くということは、実に素晴らしいことです。

いずれにしても、画期的で、予想外の喜ばしいことが、いよいよ始まります。皆様に「ご報告」致します。
posted by 21キンキ at 10:16| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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