2014年08月29日

◆「蕪村」のこころの言葉

◆「蕪村」のこころの言葉

蕪村顕彰俳句大学      池尻 一寛
                     

与謝蕪村学者の藤田真一教授(関西大学文学部)が、「蕪村」〜日本人の心の言葉〜を綴った新著を発刊されました。

発行所は椛n元社で、8月中旬から書店で発売されています。(本体1200円+税)。

著者の藤田教授には、これまで「俳人蕪村」に関する多くの著書・監修誌がありますが、大部分は「蕪村俳句・絵画」についての専門学説の論述が主です。

ところが新著は「蕪村の絶妙な言語感覚」や「俳句を作る時の環境やこころの動静」などが中心に書かれており、著書内容によって学説では接したことがない「未知の蕪村像」が浮かび上がってくるのです。誠に異色著書と云えます。

そこで、この感動的な著書をご紹介したいと考え、著書の冒頭に書かれた「はじめに」の欄を、下記に掲載させて頂きます。是非、藤田教授新著の「蕪村〜日本人のこころの言葉」の、拝読をお勧め致したいと存じます。

<画家・俳人というと、描こう描きたい、吟じよう吟じたいという、作者本人の意欲というものが先行する気配があります。もちろん蕪村とて、みずからの意思や願望を抱いて制作にむかう気持ちはあり余るほどに有していたことでしょうが、それと併せて、依頼主や仲間の意向にも精いっぱいのこころを用いたはずです。

自己実現と周囲との協調とがあいまってこそ、蕪村の制作舞台は整えることができたのです。

蕪村は、一介の町絵師にすぎませんでした。むろんときには自発的に描きたいと思うこともあるでしょうが、それとて顧客の嗜好を無視することは出来ません。蕪村の絵筆は、贔屓し、支援してくれる人びとともにあったのです。

俳諧となるとなおさら、仲間や門人といったまわりの人びと(連衆)が欠かせません。句会でも、吟行でも、句集の出版でも、孤高・独断おいうことはまず考えられません。

蕪村も人並みに夜半亭という宗匠となりますが、蕪村にあっては、上に立って指導するというより、句作の上達をめざしてともに歩むという姿勢が強く感じられます。

顧客の好みや視線を意識しながら、蕪村にしか描けない絵をかき、蕪村にしかよめない句をつくったのです。そしてそれらが今なお、多くのひとを引きつけてやまないのです。

ジャンルをまたいで、散策することによって、蕪村の未知の魅力がさらに浮かび上がってくるにちがいありません。生誕三百年を目前に控えたまさに今、蕪村の神髄にいっそう迫る好機といってよいでしょう。

ただし作品を遠目から観察しているだけではだめです。蕪村の懐にはいり込もうとする心構えが何よりたいせつです。

その道を歩もうとするとき、手紙がかっこうの道しるべとなります。作品からは見えてこない蕪村の日常の姿を目にし、飾らない声を耳にすることができます。

先年完結した「蕪村全集」全九巻(講談社版)には、四百五十通もの手紙が収録されています。仕事にかかわる記事がもっとも目につきますが、身近な日常茶飯の話題にも事欠きません。家庭生活はもとより、門人・友人との応答、洛中の種々の噂、畿内また地方のトピックなど、多岐多端にわたり、そこから当人の息づかいが感じられるのです。

まさに蕪村の懐にはいる絶好の入り口となり、その時代のなかで蕪村の姿にまみえるにはうってつけつけです。本書では、これらさまざまなレベルの蕪村のことばに接することができるよう努めました。 >

身近な日常茶飯の話題や多岐多端にわたって蕪村の息づかいが感じられるのが素晴らしい内容です

これが、藤田真一教授著書の「はじめに」欄に記された著作の意向です。

序でながら、こうした意向を盛り込まれたあとに、本論の「目録」を期しておきましょう。

◆まず、「言葉編」で、
1.遅咲きの偉才
2.画俳ふた道の華
3.交誼の輪
4.時空の夢
が、綴られています。

◆締め括りとして「生涯編」があり、
1.略年譜
2.蕪村の生涯
と、なっています。

ところで、「生涯編」の「蕪村の生涯」の中に、非常に興味深い事実の綴りがありましたので、下記に紹介させて頂きます。

<貴族でも武家もなく、担い手がまさに庶民である俳諧は、家柄や身分にこだわらないので、誕生から幼少期の記録が残っていないことが多いのです。蕪村ですらそうです。

蕪村のばあいも、生い立ちにかかわる事象はほとんど謎に包まれています。蕪村はことさらに、みずからの意思で、あからさまにすることを控えていたふしがみられます。

生前、他人に報じた唯一の資料は、伏見の柳女・賀隋母子に宛てた手紙に、「春風馬堤曲」に、(馬堤は毛馬塘也、則。余が故園也)という一節があるのみです。

柳女の夫は、鶴英と号した俳人で、蕪村と活動をともにした人物です。没後、妻子が蕪村門に入ったのですが、そんな人でも蕪村の出身を知らなかったことになります。生家については、いっそう明かせない何かがあったようです。

ただ、一番弟子」の几董はさすがに承知していたらしく、追悼文の初稿では、「浪速津の辺りちかき村長の家に生い出て」と書き、さらに病床にはふたりの姉が見舞いに来たとしるしてあります。

そういえば後年、京都から何度も大阪におもむくことがあっても、ただの一度たりとも実家に立ち寄った形跡はありません。伏見から船で淀川をくだるとき、かならず目前を毛馬の村がよぎるにもかかわらず、です。先ほどの手紙には続けて「言葉編」冒頭に出したこの文章がきます。

  余、幼童之時、春色清和の日には、必共どちとこの堤上にのぼりて遊び候。
  水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。

還暦を過ぎての回想だけになつかしむ心情に満ちあふれています。けしてふるさとを嫌っていたわけではないのです。でも、どうしてだか帰省するに至っていないのです。この引き裂かれた気持ちが、絵にも俳諧にただよう。なつかしさの香りにつながるのかもしれません。>

ところで、蕪村が俳諧、絵画に向かった時の「環境と心のあり様」は、新著をじっくり、読み感動したましが、筆者にはまだまだ「蕪村幼少期の謎」の想いが心を巡ります。
蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の庄屋の家に生まれました。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ「奉公人」として来ていました。ところが時が移ると、村長の妾となり、蕪村が生まれたのです。生誕日は不明。
こうした中、「春風馬堤曲」にあるように「幼少期」は、家系を継ぐ者としてか、家族からも、もてはやされ楽しい時を過ごしていたことは間違いないと思われます。

ところが、蕪村の人生を大きく変えることが起きました。蕪村が僅か13歳の頃、毛馬で母が亡くなり、村長も跡を追う様に間もなく逝去して仕舞う不幸が舞い込んできたのです。

蕪村は、結局「妾の子」だったため、一転して村長家一族からからは「過酷な苛め」に遭わされたようになったようです。しかも父の死去に伴い毛馬の庄屋家業も、「極貧庄屋宅」に変容して仕舞い、蕪村に家系を継ぐ話など出る筈もなかったのでしょう。

以来、生家「庄屋宅」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったというのです。これは室生犀星の状況と全く類似していると「学説」にも出ていると聞いています。

つまり、この「幼少期の不幸」が、望郷の念は人一倍ありながらも、毛馬の生家へ一度も寄らなかったのは、「幼少期の極いじめの経過」が、「帰郷拒否の念」心境増幅に繋がり、帰郷する気持ちを完全に阻んだものに違いありません。

藤田教授の新著「蕪村」は、学説とは少々異なり、教授の想いが随所に現れていて、本当に感動して読める書物になっています。

こうした中で、筆者の前記の想いを繋げて心を浮き立たせ、ミステリー小説としてでも書こうかと思っています。

最後に記述しておきたいのは、著作の背表紙に「生誕300年ー響いてやまぬ絶妙な言語感覚」書かれています。

筆者らは、2016年に迫って来た「蕪村生誕300年記念行事」を大阪市立大学と兜カ學の森と共同して、俳句文化振興と後世への伝承のために実行いたします。

どうか、芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の俳人「蕪村」をよく知ってもらい、生誕300年記念のためにも、この貴重な藤田真一教授の新著「蕪村」(創元社刊)に目を通して頂きたいと存じます。                  (了)

posted by 21キンキ at 10:43| ご挨拶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

◆NHK与謝蕪村特番 素晴らしい!

NPO法人近畿フォーラム21主催
蕪村顕彰俳句大學 
                        

NHKは、7月30日(水)夜10時から大阪俳人・「与謝蕪村の特別番組」を放映しました

この特番は、「歴史秘話ヒストリア」で放映されたので、このようなNHKの超人気番組で取り上げられたのには、大きな驚きであり、喜びを覚えました。

NHKは、<与謝蕪村は、俳句と絵画を極めた江戸のマルチ・アーティスト!「菜の花や月は東に日は西に」など名句風情の秘密とは?国宝「夜色桜台図」に秘められた感動の物語って?貧乏だけど自由なその人の人生を、愛して止まないイッセー尾形さんが演じます」とのキャッチフレーズを、放映事前に告知しました。

<“のたりのたりと”いきましょう>と題する「俳句と絵画を極める」与謝蕪村の生き様の演技は、イッセー尾形さんがこのキャッチフレーズに応じ、蕪村の人生を十分理解した上で、見事に演じました。

蕪村が、「俳句と絵画」に取り組みながら、貧乏と自由さの狭間の中で、実際に弟子たちと議論しながら俳句つくりに取り組む生き方を、なまなましく浮き彫りみせたのです。

特番によると実は、蕪村は12才で母親を大阪・毛馬の生家で亡くしたため、毛馬を出奔し江戸に向かい、幸いにも俳人巴人と出会い俳句に取り組んだのです。しかし巴人は蕪村が27歳の時この世を去り、蕪村は東北を放浪しました。

蕪村は、39才の時、母親の里・丹後の与謝に移り、絵画を志して励んだあと、京都に戻ったのです。ここからがイッセー尾形さんの演技がいきいきと蕪村の生き方を訴えたのに見応えがありました。これが特番の素晴らしい構成でした。

ところでこの特番で驚いたことがありました。「菜の花や月は東に日は西に」という句がどうして生まれたのか。この句は、雄大な写生句だと感じていただけでした。

ところが毛馬地域にとって「菜の花」は、大変な「生活の糧」だったのです。これは、この特番のゲストで出演した関西大学文学の蕪村学者・藤田真一教授が明らかにしました。

「菜の花」からは、「菜種油」が採れ、「行燈の灯り」にすることが出来たのです。イッセー尾形さんが演じる夜中のシーンで、「菜の花」が「灯りの元」となり、句会や俳句作りに役立っていたのです。流石、「菜の花」は、掛替えのないない産物であり。浪速の誇りだったのですね。

東京大学の佐藤康宏教授も、蕪村の魅力を解説され、参考になりました。

特番では、蕪村老年結婚で生まれた「くの」が離縁して蕪村の家に還り、以後老いと病と闘う蕪村がにじみ出てきました。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じました。死因は従来、重症下痢症と診られていましたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされています。特番に出てくる蕪村の墓のある「金福寺」に行って来ています。

特番で、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的でした。

NHK制作プロジューサーのコメントによると、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を一般に知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

とにかく「歴史秘話ヒストリア」で、蕪村のことが初めて放映されたこと自体、大いなる価値があります。

「蕪村生誕300年記念行事」の実行を、この9月から、共催の「文學の森」と共同して開始して参ります。

この素晴らしい「歴史秘話ヒストリア」特番で、7月30日に放映されたのを機会に、本格的に「記念行事を」進めて行きます。NHKでも「蕪村生誕300年記念」の2016年には、蕪村生誕大阪毛馬の生家での「蕪村の幼少の生き方」などを、再び「特番」にして頂きたいと祈念致します。

どうか、俳句愛好家、大阪市民の方は、「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。
posted by 21キンキ at 12:47| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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