2016年03月12日

◆蕪村顕彰全国俳句大会に「文化庁が後援」を

NPO近畿フォーラム21  事務局



画期的なことが、実現しました。

NPO近畿フォーラム21は、活動主軸を「大阪文化の振興」に置いて、江戸時代の三大俳人の一人、大阪生誕の与謝蕪村を顕彰し、後世に伝承するために、平成22年4月に「蕪村顕彰俳句大学」第1期講座を開講し、今開講中の講座も既に第12期講座に達して、28年3月31日に終えることになります。

このNPO法人活動の開始と同時に大阪府、大阪市が「後援支援」に賛同して貰い、今は9団体が「後援団体」となっています。「蕪村顕彰俳句大学」の発展、と蕪村俳句の顕彰と当NPO法人の権威確保に力をお借りしています。

更に「俳句界」刊の兜カ學の森と協同して、第7期から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開講し、地域主催の俳句講座の作品に加えて、全国から俳句応募作品を多数集められたことから 大いに母体の「蕪村顕彰俳句大学」は盛り上がりました。

こうした中で、国の中央官庁に我々の文化振興の気概と積み上げてきた実績を評価して貰おうと、国レベルの官庁に「後援」を申請したいと考え、「文化庁」に実績書類と申請書を付けて懇請をしました。

「文化庁」としても、地方での文化活動実績の精査に長期に時間を懸け、何と平成28年3月7日付で、「文化庁後援名義の使用許可」を回答した文書を送付してくれたのです。「後援期間」は28年4月1日〜28年9月30日の「第13期蕪村顕彰俳句全国大会」の時期となっています。

この「後援使用の回答」に、歓喜のあまり頭が真っ白になり感動しました。

つまり、28年の「蕪村生誕300年の年」に国の中央官庁から我々の事業に「後援」を頂いたことは、「夢」の実現だったからです。

早速、NPO法人近畿フォ−ラム主催で活動組織の「蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)」と「蕪村生誕300年記念行事実行委員会委員長(大阪市立大学分文学部教授)」に架電して知らせた処、二人からも最高の喜びの言辞が飛び出して返って来ました。

先ず、この「後援」を頂くで、5月1日に地元都島区民センターで行う学者、俳人の講演、俳人群と蕪村討論する「蕪村生誕300年記念シンポジューム」も、この「文化庁後援」を背景にして、おおいに盛り上がることは間違いありません。

更に9月11日に開催する「第13期蕪村顕彰俳句全国大会・表彰式」にしても、地元俳句受講生は勿論、全国・諸外国俳句愛好家、児童生徒から、従来を遥かに超える俳句作品の応募を決意して出句を増す感情を湧きだす事も、間違いありません。

どうしても「文化庁」が「後援を許可」してくれたこの機会に、大阪生誕であることの低い与謝蕪村の知名度を一層向上させると同時に、蕪村の名と、蕪村「俳句・絵画」を後世に継承することに絶大なお力を拝借させて頂けるものと信じます。

この意味で、今回の「文化庁後援許可」に対し、伏してお礼申し上げます。



posted by 21キンキ at 15:28| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月05日

◆望郷の念から還って来る与謝蕪村

NPO法人近畿フォーラム21
毛馬一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し今年の2016年に多彩な「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。

先行事業とし今年1月23日、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を建立」し「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせた。

次の事業は、先述の大阪市立大学の村田正博教授と共同して5月1日(日)午後1時から、都島区民センターで、学者や俳句会主宰者などが「蕪村生誕300年を祝い」「俳句の面白さやつくる愉しみ」の講演や討論を行う「シンポジューム」を開催することだ。朝日新聞記事でこれも読んだ大阪府下や地元の人から「参加する」ための問い合せの電話が、驚くほど多くやってくる。歓喜だ。蕪村生誕300年祭事業にムードは盛り上がってきた。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでもこうした「蕪村生誕300年祭」事業を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。まだ事業の計画は進んでいる。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、淀川神社に「蕪村魂」だけでも還って来て貰いたいと思っていたことが実現するだろう。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を生誕300年後に現実に繫いでやることが、筆者の重き願いでもある。(了)
posted by 21キンキ at 05:00| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

◆今年は「蕪村生誕300年」の「年」

〜2016年01月01日〜

 
NPO法人近畿フォーラム21
                     理事長   池尻 一寛



明けましてお目出度う御座います。

いよいよ今年は2016年になり、「蕪村生誕300年」の「年」を迎えました。

そこで、我々NPO法人近畿フォーラムが主宰し、蕪村顕彰俳句大学(学長 川原俊明弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会(委員長 村田正博大阪市大文学部教授)、兜カ學の森(社長 姜h東)、淀川神社(宮司 横路良)と共同して、新年から各種の「記念行事」を行います。

残念なことに、江戸時代の三大俳人の内、芭蕉と一茶は、生誕地で毎年盛大な「御祭り」が行われていますが、与謝蕪村だけは、生誕地の大阪毛馬町で「生誕記念御祭り」が行われたことが在りません。ですから、大阪地元ですら与謝蕪村が、大阪毛馬生誕の俳人だとは、中々知られていないのです。

これでこれを我々の努力で、俳人蕪村の顕彰と俳句文化の振興、そして大阪毛馬生誕蕪村を後世に継承しようというのが、行事共同者との目的であり、願いなのです。

では、「生誕300年」の「年」を迎える与謝蕪村のことを、改めてこれから追々。

与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。丁度今から300年前の享保元年です。これだけははっきりとしています。ところが、肝腎の「蕪村生誕日」が分らないのです。

蕪村(幼名―寅)は、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて産まれまれました。庄屋の父の正妻には娘が居たようですが、蕪村は、庄屋を引き継ぎ出来ない私生児だとして、一族からは冷酷な扱いに遭わされたらしいようです。

そのうえ母親と父が若くして死去したあと、蕪村が庄屋跡継ぎに成れることはなく、後年に一時、後継者の役割を果して欲しいという身勝手な一族要請の仕掛けもあったようですが、「後継者資格なし」の理由が再興して、結局、生誕庄屋自体は大阪豪商から奪われるように買い取られ、家伝庄屋は潰れてしまったのです。

このためでしょうか蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬の出奔を余儀なくされ、江戸に下ったのです。上記の劣悪な諸事情からでしょうか、蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていないのです。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人でした。蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号しています。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師早野巴人が没したあとは、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊しました。その際「蕪村」と号したのです。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えました。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けたのです。島原(嶋原)角屋で俳句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごしました。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されています。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、68歳の生涯を閉じました。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に苦吟にやって来ています。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場でした。ここから、大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っているのです。

しかし船着き場の源八橋から「生誕地だった毛馬村」まで歩いても、僅か30分ほどしかかかりません。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかったのです。

やはり母と父の死後、家人から苛められ過ぎて、再び帰郷すれば脳裏全体に辛苦が走ることを考え、終生このことが「怨念化」して郷里立ち寄りを阻んだのでしょう。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いありません。

さて、ここから大切な私たちの「蕪村生誕300年の年」の行事の活動です

蕪村の父はいまも存在する「淀川神社」氏子でした。ですから父母と一緒に蕪村は「淀川神社」に参詣しことは江戸時代の常習でした。蕪村は幼少の頃から江戸へ出奔するまでの苦衷の念に浸されていたのころ、氏子として「淀川神社」に祈願参詣したでしょう。

従ってこのご縁を取り入れ、念願の「蕪村生誕300年の御祭り」の最初行事として、今もある淀川神社境内に、協賛者のご協力をえて昨年暮、高さ1m60pの「蕪村銅像を建立」しました。

そして、建立した「蕪村銅像の除幕式」を、正月23日午後1時から行うことにしています。まさに最初の「記念行事」になります。

続いては、3月10日に、大阪市大と協力して大阪天神橋六丁目の「大阪区民センター」で「講演会」開催し、蕪村通り商店街の会長や建築家に出演してもらい、蕪村に馴染むまちづくり計画の提示を基に「討論会」を実施します。これが「蕪村生誕300年の年」からの蕪村まちづくりに着手する二次目の行事です。

更に5月1日の午後1時からは、「都島区民センター」で、蕪村生誕300年行事実行委員長・村田正博市大教授主導で、盛大な「蕪村生誕300年シンポジューム」を、学者や俳人、受講講師、弁護士が参加して「講演会」「討論会」を開催します。大阪で「蕪村を主題としたシンポジューム」が開かれるのは、これが初めてです。

そして9月11日には、株o句界と共同して、全国・地元・諸外国から俳句作品を募集し、優秀句の「表彰式」を行います。その優秀句を近郊の蕪村公園に「プレート碑を建立し、除幕式を行います。更にはその公園内に「生誕300年を祝する記念植樹」や「御祭り踊り」等の「300年記念行事」を行うことにしています。

何としてでも「蕪村生誕300年記念祭」に実効をあげ、大阪俳人与謝蕪村の名を、NPO法人のホームページや都島区役所の広報、地元・全国俳句愛好家等を通じて、国内外に広めたいと考えています。後世の継承していくのも、当然の使命です。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、今年の「蕪村生誕300年記念祭」開催時に、「蕪村の魂」だけでも大阪毛馬の地に飛来して貰いたいと思っています。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、願いなのです。(了)
posted by 21キンキ at 09:49| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月22日

◆「蕪村銅像」を大阪「淀川神社」に建立

NPO法人近畿フォーラム21  毛馬 一三



2015年12月21日

平成28年1月から、いよいよ「蕪村生誕300年の年」。江戸時代三大俳人の与謝蕪村は、300年前の1716年享保元年に大阪毛馬村に生まれたことだけは、はっきりしていますが、肝腎の「生誕の日」は未だ不明です。

しかし2016年は上記の通り、「生誕年300年の年」を迎えることになります。

筆者が所属するNPO法人近畿フォーラム21は、6年前から「大阪俳句文化振興を図る活動のひとつとして、蕪村生誕300年を顕彰する「講座・蕪村顕彰俳句大学(学長川原俊明・弁護士)」を立ち上げ、同講座開講を運営しつつ、兜カ學の森とも共同して、全国俳句大会も開催し、最優秀句の表彰式をおこなって来ました。

ところがどうしても困惑極めるのは、「蕪村生誕の日」が分からないことです。分からないことは、大阪毛馬町生誕の「生誕300年」の「御祭り」を、来年のいつの日に、如何なる行事をすすめたらいいかが直面する難問でした。

そこで、まず世間に広く知られている大阪淀川堤防上の「生誕記念碑」に匹敵する「蕪村銅像」を建てることが、効果的だとの考えにNPO法人理事会の意見が合致し、立案作業を進めてきました。

では、「蕪村銅像」を建てる場所をどこにするのかが最大の課題でした。「銅像建立」によって蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを、地元だけでなく、全国・諸外国の俳句愛好家にどしどし「銅像」を見に来て貰うための「最適地」は、一体何処がいいのだろうか、これに関して詳しい調査をすすめました。

そんな時に、「最適の建立場所の候補地」が上がったのです。驚嘆でした。これはこれから追々。

蕪村は、摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)の庄屋で生まれました。庄屋は近郊にある「八幡神社」と「淀川神社」の「氏子」でした。江戸時代は、ともかく生誕のお祝いや商売発展の祈願、生活安泰の祈願、悩みからの脱皮の祈願などに期を捉えて、氏子たちが「神社」に参詣していたことは、江戸時代の慣習であり、熱の籠った常習でした。

ですから「二つの氏子神社」に、与謝蕪村(寅)が、東成郡友渕村で育った幼少の頃、庄屋の「氏子」の父と母につれられて氏子参詣を続けていたであろうということが、地元毛馬町の情報として急速に浮かび上がって来たのです。

序でながら記しますと、もうひとつの「八幡神社」は、明治に近郊の「桜宮神社」と合祀し、姿を消しました。従って、現存する毛馬町の氏子神社は、「淀川神社」だけになっています。

と云うことは、蕪村が参拝したと称される氏子神社の実像は、今では「淀川神社」だけしか、残っていないということになります。

このことから筆者は、動きだしました。早速注目の「淀川神社」を訪ね、横呂良宮司と神社の座敷で、同神社の歴史と蕪村参詣の歴史的風習を巡る話し合いを交わしたのです。
すると、横呂良宮司は、神社は焼却の過去もあり「淀川神社への参詣書はないものの、江戸時代慣習から察すれば、蕪村氏子一家がここに参詣したことは間違いないことでしょう」と、意見が一致しました。

ですから、蕪村が幼少の頃、悩みに包まれた母と参詣に通ったのは想像に難くなく、生家相続に絡まされ悩みの果てた蕪村が、駆け込み参詣を行ったことも推測出来る経過を飛び出してきました。

更には、17・18歳の頃、生家「庄屋」を整理して江戸に下る決意を問い掛ける参詣も、当然氏子の立場で「淀川神社」に命懸けで詣でたこととは、当然のことだと断言できることも一致しました。

そこで筆者は決意しました。その場で横呂良宮司に「淀川神社の境内」に「蕪村銅像」を建立させて頂けませんでしょうか。望郷の念に終生纏わり付かれた蕪村の心を迎い入れ、蕪村が参詣したのがここの「淀川神社」だと後世に伝承しましょうとお願いしました。

横呂良宮司も話の進み具合を快く受けいれられ、実はこのあと「神社役員会」を開催されて、この問題を協議して頂いたのです。その結果的、何と「神社役員全会一致」で、境内への建立が決定されました。
神社に俳人の銅像が建立されるということは、画期的なことでした。

筆者は歓喜し、早速これを川原俊明学長と「蕪村生誕300年行事実行委員会・村田正博委員長(大阪市大文学部教授)」に報告した処て喜ばれ、勿論NPO法人理事全員も「蕪村銅像建立先」に感動しました。

本当に「淀川神社境内」に歴史的、かつ蕪村幼少時代の本人と父母の参詣心情を取り入れて、「建立」賛同にご努力された横呂良宮司と「神社役員会の方々」に心から御礼を申し上げました。

これから本題。

NPO法人近畿フォーラム21と、淀川神社(大阪毛馬町)は事業協力して、大手建設会社に発注し、平成27年12月21日正午前から、神社境内で「蕪村銅像建立」工事を実施します。工事は、午後1時前には終わる予定です

そこで、出来上がる「蕪村銅像」の形は、下記の通りです。

・「蕪村銅像」自体の、高さは(地面より)1m60p。

・「蕪村銅像」正面は、台座石95pの上に、鉄製の「蕪村像本体」(土台付)65p。「銅像横幅」は、45p。
 
・「蕪村銅像」の正面高さ(台座付)は70p、銅像幅は(台座付)で45p。

・「銅像」正面の台座の中には、「与謝蕪村銅像」、「故郷毛馬生誕300年記念」と記しています。
更にその下に多数の「建立協賛者名」が記されています


そしてこの「蕪村銅像」が完成したあと、来年平成28年からの「蕪村生誕300年の年」のスタートに合わせて28年1月23日(土)13時から、「蕪村銅像建立の除幕式」を「淀川神社」で開催します。

 末尾になりましたが、蕪村銅像建立のため、地元・各界の方々から「賛助」にご協力を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

どうか、「蕪村生誕300年の年」幕開けの来年1月23日午後1時には、「淀川神社」での蕪村銅像建立の除幕式を開催致しますので、是非「淀川神社」にお越し頂きます様、お願い致します。 以上

◆なお、全国版「頂門一針」に、上記記事が掲載されました。蕪村顕彰を全国に発信して頂き感謝致します・
全国版「頂門一針」:バックナムバーは http://www.melma.com/backnumber_108241/

  
posted by 21キンキ at 18:23| 新活動の展開 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月30日

◆与謝蕪村の望郷の念を叶える

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。しかも生誕日さえも分かっていないのだ。暗中模索とはこのことに等しい。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し2016年に「蕪村生誕300年祭行事」開催を進める。前記のように「蕪村生誕日」が分かっていないので、NPO法人近畿ホーラム21で「蕪村生誕300年祭行事」を行う。

この「御祭り」には、淀川神社、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家にも、共同事業に参加して頂く。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

毛馬 一三

江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。しかも生誕日さえも分かっていないのだ。暗中模索とはこのことに等しい。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し2016年に「蕪村生誕300年祭行事」開催を進める。前記のように「蕪村生誕日」が分かっていないので、NPO法人近畿ホーラム21で「蕪村生誕300年祭行事」を行う。

この「御祭り」には、淀川神社、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家にも、共同事業に参加して頂く。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)
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2015年10月13日

◆大阪吟行の蕪村 生誕地には帰らず

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下った。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬村」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。母親は若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎを委ねられたものの、正当嫡子でないために庄屋経営責任をも果たせず、周囲や同業からの過酷ないじめに遭わされたこともあって、意を決し毛馬村を飛び出したようだ。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。

この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に吟行に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の「淀屋橋か源八橋」からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を重点的に回っていたことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり「大阪」が活躍の舞台だった訳だ。これもあまり知られていない。

これを証ように、今の大阪市北区梅田茶屋町の商店街の広場に「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があり、顕彰されている。

ここでは地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」という「まち起こしイベント」を催している。つまりこの辺りは、蕪村が毛馬橋から上がって、散策したところだ。

ところが、蕪村は正に近郊に存在する蕪村生誕地の「毛馬」に、前述の様に一歩も足を踏み入れていない。父母に対する「望郷」の念は強くあっても、幼少の苦節だけがそうさせたのだ。

さて、後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、蕪村俳句文化振興をしようという筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム主催「講座蕪村顕彰俳句大學」(学長 川原俊明弁護士)開講は、立ち上げてから、もう6年が経っ。

応募の優秀句には「知事、市長、教育委員会委員長、学長賞」、海外から応募の優秀句には「国際交流基金理事長賞」等の各賞を授与する「表彰式」を毎年2回行い、蕪村生誕地近郊の大阪市造営の「蕪村公園」に、「表彰式」のあと「優秀句記念プレート碑」を建立している。

この4月からは、第11期講座を始め、来年の蕪村生誕300年記念を控えて、9月には兜カ學の森と共同して「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を行った。文學の森刊「俳句界」を通じて、俳句作品のご応募を読者の方にお願いした。

そんな折、驚くべきことが分かった。

大阪俳人としての名を高めた与謝蕪村が、生誕地毛馬村で幼少の頃、父母と一緒に「氏子」として参詣を続けていた氏神神社が今、大阪市毛馬町にある「淀川神社」であることが分かったのである。

これにより、昨年の暮、当NPO法人近畿フォーラム21と、「淀川神社」が共同して蕪村俳句顕彰し、蕪村参詣経験の「淀川神社」の名を広める等の諸活動を行うことになった。

その手始めに今年から「淀川神社」で、俳句愛好者が自作の俳句を「蕪村絵巻」に俳句自作を書き込み、境内に吊るす祭事を始め、マスコミも取り上げられた。

これからは、この活動が「望郷の念」の強かった蕪村が、来年28年の「蕪村生誕300年記念年」を控えて、現代の人たちが蕪村の「望郷の念」を引き継ぎ補ってくれることを喜ぶことになると思う。だから地元と協力して積極的蕪村顕彰を進めていきたい(了)

posted by 21キンキ at 13:13| チョット教えて! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月09日

◆蕪村顕彰全国俳句大会 終わる

〜第11期表彰式 盛会裡に無事終了〜

NPO法人近畿フォーラム21主宰
  蕪村顕彰俳句大學  川原俊明
兜カ學の森     林 誠司


 
9月13日(日)午後1時から大阪市立淀川小学校で開催しました「蕪村顕彰全国俳句大会第11期表彰式」は盛会裡に無事終了しました。

 全国誌「俳句界」発刊の兜カ學の森と共同して、全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大學運営の「句会講座」の受講生の応募作品から専門家に選考して頂いた「一般の部」の優秀句に、「大阪府知事賞、大阪市長賞、公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞、当学長賞、兜カ學の森賞」を授与致しました。

 また、大阪市立、私立の小中高校から応募頂いた「児童生徒の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、当学長賞、それに今期から新規に設けた淀川神社賞」を授与しました。

 さらに、諸外国から応募された俳句作品の「国際俳句蕪村賞の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市長賞、独立行政法人国際交流基金理事長賞」を授与致しました。

 このほか、上記3部に「佳作賞」を授与し、蕪村顕彰俳句大學の3「句会講座」の講師推薦賞も授与しました。

 式典が終了後、蕪村生誕地近郊の「蕪村公園」に、表彰された「優秀句の記念碑」を建立し除幕式をしました。受賞した児童生徒・ご家族、一般の部の受賞者が集まり、大いに盛り上がりました。

 そこで、「優秀句一覧表」を下記に掲載します。どうか優れた全国俳句大会の実績を拝読頂き度存じます。

江戸時代の俳人・与謝蕪村生誕300年の年が、来年平成28年に迎えますので、今期全国俳句大会第11期表彰式は、その「お祭り」の前哨となりました。来年与謝蕪村生誕300年記念行事は、皆様のお力を頂いて、おおいに盛り上げようではありませんか。心からお願い申し上げます。

◆一般の部

大阪府知事賞
    沢蟹は水の色して生れけり     兵庫県  前田 忍様

大阪市長賞
    白南風や通し土間よりすぐに海   千葉県  原 瞳子様

公益社団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞
    閉めてあるはうが明るし春障子  大阪府  藤村澄子様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    魚すべて黒潮のもの船料理  大阪府  藤村澄子様

(株)文學の森賞
    なには津の日暮れ明るき祭鱧  大阪府  間谷雅代様

佳作賞
    校長を勤め上げたる白絣      埼玉県   荒川清司様
    戸隠の何処歩きても遠郭公     大阪府   猪田初美様    
    月涼し桶に匂へる高野槙      兵庫県   上原悦子様
    風の繰る机上の一書五月来る    大阪府   高野卓也様
    ひかり吸ふやうに蓮酒飲みにけり  大阪府  武田和子様
    地球儀の塵拭く海の日なりけり   大阪府   竹森静雄様
    蕪村句碑驚かせたる大花火     大阪府 田中靖子様
    蕪村句碑までの長堤小鳥来る    大阪府 谷口多満様
    青蘆のさやめく淀の暮色かな     奈良県   中川晴美様
    蔵のある町を飛び交ふつばくらめ   大阪府   西村妙子様
    墓ひとつ残す故郷盆の月       滋賀県   前川菅子様
    月山の花野に埋もる遭難碑      兵庫県   本村幸子様
    マンションに水母を飼へる漢かな   大阪府   森田幸夫様
    鰡飛んで旧淀川をきらめかす    大阪府   山田夏子様
    遠足の磯の香の子を集めをり    兵庫県   山田美恵子様
    闇濡れて来て蛍の飛び始む     大阪府   吉田 喬様
    時の日や流るるものに水と砂    大阪府   吉田 喬様
    一人来て一人の音の田植かな    大阪府   吉田万喜子様
    潮入に下る砂利舟蘆茂る      大阪府   吉村幸子様
    尻ぬれてよりぞんぶんに磯遊    兵庫県   蘭定かず子様

◆一般の部 講師推選賞

大橋晄講師推選賞
    谷水を引きて山家の花菖蒲     嶋崎 豊子
    短夜の沖静かなる波の音      北村恵美子
    土筆摘み島へ別れの一家かな     中村 公代

山尾玉藻講師推選賞
    見覚えや柩の上の夏帽子      大山 文子
    藻の咲いて水神へ櫂使ひけり    蘭定かず子
    雲の峰軒の卵塊濡れゐたる     小林 成子

柴田多鶴子講師推選賞
    更衣ひととき妣の香の中に    伊福悠紀
    ほうたるを呼ぶ児の減りて闇の濃し   田宮恭子
    原種みな素朴なかたち額の花    岩出くに男

◆児童・生徒の部

大阪府知事賞
    おひさまがぎらぎらしたらかき氷 大阪市立大東小学校五年  坪田 乃々様

大阪市教育委員会委員長賞
    表面に虹を浮かべてしゃぼん玉  大阪市立南高等学校一年  川元 理代様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    一人聞く祭囃子の笛の音     大阪市立南高等学校一年  井上 和音様

淀川神社賞
    月見草風にふかれてゆらゆらと  大阪市立淀川小学校六年年 宮本 結菜様

佳作賞
    ひがささしちょっとおとなきぶんだよ大阪市立大東小学校二年    天野  凛
    ふゆのそとナイフのようにかぜがふく  大阪市立大東小学校二年    田中 心樹
    白い息城の石がき見て走る       追手門学院小学校三年      田邊 誉人
    雨上がりしずくと共に虹が出る     大阪市立淀川小学校六年     小路 愛心
    夏の星夜空に光をときはなつ      大阪市立淀川小学校六年     新居 美咲
    帰り道秋夕焼けが照らす道       大阪市立淀川小学校六年     軽澤 礼奈
    やわらかい落ち葉の道を散歩する    大阪市立大東小学校六年     森下 心葉
    ヒマワリよ私の背をこさないで     追手門学院小学校六年      内田 佳歩
    入学式背負いなれないランドセル    追手門学院小学校六年      内海 隆飛
    夕焼雲その間から光さす        大阪市立咲くやこの花中学校二年 稲葉 遥
    夕焼に足をゆるめる君とぼく      大阪市立咲くやこの花中学校二年 小倉茉菜香
    月涼し足音止んだグラウンド      大阪市立咲くやこの花中学校二年 山口わたる
    赤とんぼだいだい色の空に飛ぶ     大阪市立南高等学校一年    酒本 愛優
    蝉時雨日差しと共に降りそそぐ     大阪市立南高等学校一年    福盛 海斗
    原色に溶けきっていくかき氷     大阪市立南高等学校一年    川元 理代
    少しでかい制服を着て新入生      大阪市立南高等学校一年    小林 瑞季
    真っ青に輝く空だきたぞ夏        大阪市立南高等学校一年    西村 明花
    Imissyouあの日作った雪だるま 大阪市立南高等学校一年    藤田美香麗
    蒲公英よ叶うと言ってこの恋が      大阪市立南高等学校二年    大西 七菜
    つばめの子お前はどこへ飛んでいく   大阪市立南高等学校二年    爲 麻土香

◆国際俳句蕪村賞

大阪府知事賞
    夕焼けや故郷へ架かる鉄道橋     台湾    蔡 佩真様

大阪市長賞
    夕焼けや子供を背負う父の影    台湾    周 姿均様

独立行政法人国際交流基金理事長賞
    天窓を開けたまま寝る夏の月     台湾    郭 芳慈様

佳作賞
    コンビニの暴走族や夏の月      台湾  宋 佳駿
    夏の月ダイダラボッチ動き出す    台湾  楊 子瑩


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2015年09月24日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

NPO法人近畿フォーラム21
       毛馬 一三




一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれた。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたち40人を含むおよそ200人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせていた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは、小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな戸惑いだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会を知り、一茶の生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは、蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あったことだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者が主宰する「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施したい方針で、今、諸計画を準備している。間もなく具体化する。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、来年の適切な時に開催し、大阪の俳句文化振興に貢献し、後世に伝承したいと考えている。(了)

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2015年09月14日

◆蕪村顕彰全国俳句大会 終わる

〜第11期表彰式  盛会裡に無事終了〜

              
NPO法人近畿フォーラム21主宰
                         蕪村顕彰俳句大學



 9月13日(日)午後1時から大阪市立淀川小学校で開催しました「蕪村顕彰全国俳句大会第11期表彰式」は盛会裡に無事終了しました。

 全国誌「俳句界」発刊の兜カ學の森と共同して、全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大學運営の「句会講座」の受講生の応募作品から専門家に選考して頂いた「一般の部」の優秀句に、「大阪府知事賞、大阪市長賞、公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞、当学長賞、兜カ學の森賞」を授与致しました。

 また、大阪市立、私立の小中高校から応募頂いた「児童生徒の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、当学長賞、それに今期から新規に設けた淀川神社賞」を授与しました。

 さらに、諸外国から応募された俳句作品の「国際俳句蕪村賞の部」の優秀句にも、「大阪府知事賞、大阪市長賞、独立行政法人国際交流基金理事長賞」を授与致しました。

 このほか、上記3部に「佳作賞」を授与し、蕪村顕彰俳句大學の3「句会講座」の講師推薦賞も授与しました。

 式典が終了後、蕪村生誕地近郊の「蕪村公園」に、表彰された「優秀句の記念碑」を建立し除幕式をしました。受賞した児童生徒・ご家族、一般の部の受賞者が集まり、大いに盛り上がりました。

 そこで、「優秀句一覧表」を下記に掲載します。どうか優れた全国俳句大会の実績を拝読頂き度存じます。

 江戸時代の俳人・与謝蕪村生誕300年の年が、来年平成28年に迎えますので、今期全国俳句大会第11期表彰式は、その「お祭り」の前哨となりました。来年与謝蕪村生誕300年記念行事は、皆様のお力を頂いて、おおいに盛り上げようではありませんか。心からお願い申し上げます。

<◆一般の部>

大阪府知事賞
    沢蟹は水の色して生れけり     兵庫県  前田 忍様

大阪市長賞
    白南風や通し土間よりすぐに海   千葉県  原 瞳子様

公益社団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞
    閉めてあるはうが明るし春障子  大阪府  藤村澄子様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    魚すべて黒潮のもの船料理  大阪府  藤村澄子様

(株)文學の森賞
    なには津の日暮れ明るき祭鱧  大阪府  間谷雅代様

佳作賞
    校長を勤め上げたる白絣     埼玉県   荒川清司様
    戸隠の何処歩きても遠郭公   大阪府   猪田初美様    
    月涼し桶に匂へる高野槙     兵庫県   上原悦子様
    風の繰る机上の一書五月来る    大阪府   高野卓也様
    ひかり吸ふやうに蓮酒飲みにけり 大阪府  武田和子様
    地球儀の塵拭く海の日なりけり  大阪府   竹森静雄様
    蕪村句碑驚かせたる大花火    大阪府 田中靖子様
    蕪村句碑までの長堤小鳥来る    大阪府 谷口多満様
    青蘆のさやめく淀の暮色かな     奈良県   中川晴美様
    蔵のある町を飛び交ふつばくらめ  大阪府   西村妙子様
    墓ひとつ残す故郷盆の月     滋賀県   前川菅子様
    月山の花野に埋もる遭難碑     兵庫県   本村幸子様
    マンションに水母を飼へる漢かな   大阪府   森田幸夫様
    鰡飛んで旧淀川をきらめかす    大阪府   山田夏子様
    遠足の磯の香の子を集めをり    兵庫県   山田美恵子様
    闇濡れて来て蛍の飛び始む     大阪府   吉田 喬様
    時の日や流るるものに水と砂    大阪府   吉田 喬様
    一人来て一人の音の田植かな    大阪府   吉田万喜子様
    潮入に下る砂利舟蘆茂る     大阪府   吉村幸子様
    尻ぬれてよりぞんぶんに磯遊    兵庫県   蘭定かず子様

<◆一般の部 講師推選賞>

大橋晄講師推選賞
    谷水を引きて山家の花菖蒲     嶋崎 豊子
    短夜の沖静かなる波の音      北村恵美子
    土筆摘み島へ別れの一家かな     中村 公代

山尾玉藻講師推選賞
    見覚えや柩の上の夏帽子      大山 文子
    藻の咲いて水神へ櫂使ひけり    蘭定かず子
    雲の峰軒の卵塊濡れゐたる     小林 成子

柴田多鶴子講師推選賞
    更衣ひととき妣の香の中に   伊福悠紀
    ほうたるを呼ぶ児の減りて闇の   田宮恭子
    原種みな素朴なかたち額の花   岩出くに男

<◆児童・生徒の部>

大阪府知事賞
    おひさまがぎらぎらしたらかき氷 大阪市立大東小学校五年 坪田 乃々様

大阪市教育委員会委員長賞
    表面に虹を浮かべてしゃぼん玉  大阪市立南高等学校一年  川元 理代様

蕪村顕彰俳句大学学長賞
    一人聞く祭囃子の笛の音     大阪市立南高等学校一年  井上 和音様

淀川神社賞
    月見草風にふかれてゆらゆらと  大阪市立淀川小学校六年年 宮本 結菜様

佳作賞
    ひがささしちょっとおとなきぶんだよ大阪市立大東小学校二年    天野  凛
    ふゆのそとナイフのようにかぜがふく  大阪市立大東小学校二年    田中 心樹
    白い息城の石がき見て走る       追手門学院小学校三年      田邊 誉人
    雨上がりしずくと共に虹が出る     大阪市立淀川小学校六年     小路 愛心
    夏の星夜空に光をときはなつ      大阪市立淀川小学校六年     新居 美咲
    帰り道秋夕焼けが照らす道       大阪市立淀川小学校六年     軽澤 礼奈
    やわらかい落ち葉の道を散歩する    大阪市立大東小学校六年     森下 心葉
    ヒマワリよ私の背をこさないで     追手門学院小学校六年      内田 佳歩
    入学式背負いなれないランドセル    追手門学院小学校六年      内海 隆飛
    夕焼雲その間から光さす        大阪市立咲くやこの花中学校二年 稲葉 遥
    夕焼に足をゆるめる君とぼく      大阪市立咲くやこの花中学校二年 小倉茉菜香
    月涼し足音止んだグラウンド      大阪市立咲くやこの花中学校二年 山口わたる
    赤とんぼだいだい色の空に飛ぶ     大阪市立南高等学校一年    酒本 愛優
    蝉時雨日差しと共に降りそそぐ     大阪市立南高等学校一年    福盛 海斗
    原色に溶けきっていくかき氷     大阪市立南高等学校一年    川元 理代
    少しでかい制服を着て新入生     大阪市立南高等学校一年    小林 瑞季
    真っ青に輝く空だきたぞ夏       大阪市立南高等学校一年    西村 明花
    Imissyouあの日作った雪だるま 大阪市立南高等学校一年    藤田美香麗
    蒲公英よ叶うと言ってこの恋が      大阪市立南高等学校二年    大西 七菜
    つばめの子お前はどこへ飛んでいく   大阪市立南高等学校二年    爲 麻土香

<◆国際俳句蕪村賞>

大阪府知事賞
    夕焼けや故郷へ架かる鉄道橋     台湾    蔡 佩真様

大阪市長賞
    夕焼けや子供を背負う父の影    台湾    周 姿均様

独立行政法人国際交流基金理事長賞
    天窓を開けたまま寝る夏の月     台湾    郭 芳慈様

佳作賞
    コンビニの暴走族や夏の月      台湾  宋 佳駿
    夏の月ダイダラボッチ動き出す    台湾  楊 子瑩



posted by 21キンキ at 10:10| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

◆与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?

NPO近畿フォーラム21
毛馬 一三

 
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)だと、江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。

ところがそうではないことが分かり、驚かされた。

というのは、私が代表のNPO近畿フォーラム21主催俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で初めて知ったのだ。

教授講演によると、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったとの説明だった。

藤田教授はさらに、次のように語った。

<<蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。

毛馬村の名前を出したのは、唯一この「春風馬堤曲」だけである。それでも自分の生誕地がこの毛馬村だったとは、弟子や俳人仲間にも殆ど触れていない。

ところが、蕪村が自ら生誕地が大阪毛馬村だと初めて記したのは、蕪村が主宰する「夜半楽」の弟子に、この「春風馬堤曲」の冊子を贈呈した手紙の冒頭添え書に書いていたことが後々に分かったのだ。

冊子を贈呈した大阪在住弟子とは、柳女・賀端(がつい)で、添え書きの中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。

(春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」)。


この添え書きは、一応江戸時代から「物証」の形を取ってはいたが、毛馬村が生誕地との確実説とはなっては居なかった。

何故なら、江戸時代の発刊諸本は複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」弟子に宛てたこの「添え書き」ですら、複製か、それとも蕪村直筆なのか、多々異論が渦巻き、江戸時代以降長い間、確定していなかったのだ。

従って蕪村生誕地は、関西各地を含めた「複数説」が広がっていたという。

ところが前記の如く、終戦直後、奈良県で偶然見つかった同「書き添え書簡」が、「蕪村直筆」だと蕪村学者によって公式に認定された。

これよって、やっと「蕪村生誕地が毛馬村」であると確定したのである。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、毛馬が生誕地であることを補完する形を示すことになり、遂に毛馬村生誕地が不動のものになった訳だ。>>

この経過を考えると、弟子宛の蕪村生誕地を記述した1通の「蕪村直筆添え書き書簡」の学者公認の意味は大きい。

これがなかったら、蕪村が俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。

蕪村が大阪毛馬生誕の俳人と定説になってから、僅か70年ほどしかならない。この影響があって、芭蕉や一茶とは異なり、大阪俳人として蕪村の顕彰が疎かにされてきたことは事実だ。

これからは2年後の蕪村生誕300年に向けて、私たちのNPO近畿フォーラム21で、生誕300年記念行事実行を進めることにしている。

目下検討中の”記念行事” は、   

@「国際俳句蕪村賞」を諸外国応募者に授与(大阪知事賞・大阪市長賞・国際交流基金賞等)
A シンポジウム 28年5月1日開催(村田正博市大教示・俳句学者・・俳句主宰者が参加)
B 屋形船の「句会」(蕪村生誕地近郊の1級河川「淀川・大川」で)
C 蕪村歩こう会:(大阪市立大学文学部と共同事業)
D 蕪村公園内か、何処かに「蕪村銅像建立」
E 蕪村公園へ植樹(蕪村俳句に詠まれた樹木)
F 蕪村生誕300年記念「俳句大会」(全国・海外から作品募集)
G 蕪村に宛てた絵手紙展(蕪村俳句からの絵手紙を募集・展示会)
H 蕪村カルタつくり(蕪村俳句から作ったカルタを募集・優秀作品を展示会)
I「蕪村紙芝居」と「蕪村顕彰ライブコンサート」同時開催
J 蕪村公園・毛馬閘門・毛馬胡瓜で生誕地都島区を広める「まちづくり」
K 2016年秋「生誕300年祭」を開催。諸外国俳句愛好家を招請

以上の事業を、推薦団体、協賛団体・協賛者のご協力を得て、生誕300年を迎える年迄に順次行いながら、2016年の生誕300年秋に盛大な「生誕記念祭」を行いたいと考えている。

既に、2年前から兜カ學の森と共同して、「蕪村顕彰全国俳句大会」を行うと共に、上記の「蕪村生誕記念祭」も共同で盛大に開催することを合意している。

大坂生誕与謝蕪村生誕記念事業をすすめることによって、後世継承と全国・諸外国に「世界最短の詩・俳句」文化振興を進めていきたいのが、私の願いである。
(了)
        (修正・加筆して再掲)
                         
posted by 21キンキ at 12:44| 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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